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麦が黄金色に穂を垂れるころ、その魔法使いはやって来た。
アイン・オソから派遣されたトルグの後任だ。
魔法使いは、これまで通りレムがこの家で暮らしてもかまわないと言ってくれたそうだ。レムは、ありがたくうなずくしかなかった。トルグがいた場所に違う人間が入り込むのは嫌だったが、自分の居場所は、いまのところここしかないのだ。
新しい魔法使いは、トルグとはまるで感じが違っていた。藍色の長い寛衣に腰帯を締めた姿は一緒だが、戸口につかえるほど背が高く、骨張った大きな手をしている。肩まで垂らした長い髪は黒くて、冬空のように薄い灰色の目をしていた。冷たく整った顔はまだ若そうだったが、表情に乏しかった。
「フォーヴァさん、この子がレムです」
村長の言葉に、フォーヴァと呼ばれた魔法使いは、にこりともせずにレムを眺めた。
レムも黙って見返した。
第一印象は最悪だ。
「よろしく頼みますよ。必要なことがあれば、なんでも言って下さい」
二人を引き合わせてそそくさと行ってしまった村長も、この魔法使いは苦手とみえる。
家の中に入ったフォーヴァは、旅嚢を肩にかけたまま、こんどは室内を見まわした。入ってすぐに大きな四角いテーブルと二つの椅子。来客用の椅子はテーブルの下に入れてある。窓の下にも長椅子がひとつ。窓と反対側に低い暖炉が作られ、その両脇に細々としたものを置いた棚があった。奥は裏庭に続く台所で竈や水瓶、食料庫。台所の手前に梯子のような階段があり、二階に部屋がふたつ。東側の大きな部屋は寝室を兼ねたトルグの書斎で、小さい方はレムが使っていた。
「トルグさんのものは部屋に残っています。使えるものがあるならどうぞ」
レムは言った。
「窓から〈穴〉が見えますよ」
フォーヴァはうなずき、二階に上って行った。
しばらくがたがたと物を片づける音がして、静かになった。それきり下りて来ない。
そういえば、一度もフォーヴァの声を聞いていないなとレムは思った。まあ、声を聞いたところで、好きになれそうにはなかったが。
夕方近く、村長の娘のミイアがパンと鍋いっぱいのシチューを持ってきてくれた。レムより三つ年上。ふっくらとした、可愛らしい少女だ。
「父さんが歓迎会をするって言ったんだけど、断られたんですって」
ミイアはささやいた。
「だからちょっとごちそう。肉たっぷりよ」
「ありがとう」
「気むずかしそうね、魔法使い。うまくやれそう?」
「まだ会ったばかりだから」
「そうね」
ミイアは力づけるようにレムの肩を叩いた。
「大丈夫、魔法使いに悪い人はいないわよ」
夕食の時もフォーヴァは黙々と食べるだけで、何も話さなかった。自分の存在が面白くないのかもしれないな、とレムは思った。
確かに、見ず知らずの子供となど暮らしたくはないだろう。前の魔法使いが残していったから、しかたなく引き受けてくれたのだ。
いっそもう村を離れようか、とレムは思った。自分の家族は消え、トルグは死んでしまった。村にはもう、自分を引き留めておくものは何もない。
街に出て、仕事を探そう。羊皮紙の扱いや羽根ペンの使い方はトルグに教えてもらっていた。どこかの書写人の弟子でもなれればいいけれど。
食べ終わったフォーヴァが立ち上がった。
「あとは、ぼくが片づけます」
「ああ」
レムと目をあわせることもせず、フォーヴァは言い、二階に上って行った。
レムと会ってはじめて発した言葉はこれだけ。声は若いものの、外見に似て抑揚がなかった。やっぱり、好きになれない。
レムはやれやれと首を振った。
明日から村総出の麦刈りが始まる。刈り取りが終わったら、ほんとうにこれからのことを考えなくては。
いつもより早く起きたつもりだったのに、フォーヴァはもう台所にいた。ふわりとしたいい匂いがただよっていた。フォーヴァが朝食を作ったらしい。
裏庭にひいた小川の水で顔を洗うと、二人分の椀がテーブルにあった。
「朝、早いんですね」
「食べなさい」
レムは椅子に座った。チーズ入りの麦粥だ。
「いただきます」
一口食べ、はっとした。チーズがたっぷりと、蜂蜜が少し。トルグがよく作ってくれたものと同じもの。
同じ味がする。
トルグへの懐かしさが、たまらなくこみあげてきた。
スプーンを持ったままレムは顔を伏せた。涙が、押さえようもなく流れてくる。どうしてここにいるのがトルグではないのだろう。
フォーヴァはしばらくレムを見ていた。
やがて、ようやく、
「嫌いなのか?」
レムは、夢中で首を振った。
「トルグさんのと同じだから」
「トルグが教えてくれた」
レムは、目を赤くしたままフォーヴァを見上げた。
「トルグさんを、知っているの?」
「わたしの教師だった」
はじめて聞くことだ。トルグはアイン・オソの教師だったのか。彼は、自分のことをあまり話さなかったから。
「なぜトルグさんはこの村に?」
「〈穴〉を自分の目で見てみたいとトルグは言った」
フォーヴァは、思いをはせるように目を細めた。さらに目を細め、
「アイン・オソに残っていれば、死ぬことはなかった。わたしが病を見つけて、治してやれた」
「そりゃあ──」
レムはかっとした。自分が責められているような気がした。トルグの異変に気づいた時には遅かったのだ。
「ぼくは何もできなかった。あなたはそれを言うためにチュスクに来たんですか?」
「いいや」
「じゃあ、なんで!」
「きみに話す必要はない」
「ああ。そうですね」
レムは音をたてて立ち上がり、後かたづけもせずに家を飛び出した。
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