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「レム」  麦畑で大人たちが声をかけてきた。 「こんどの魔法使いは、どうだい?」  まさか最悪とは言えず、レムは曖昧に笑ってみせた。 「まあ、トルグさんがいい人すぎたから」  説教めかして言う人もいた。 「ちょっとは辛抱するんだな、レム」  少しだけならね。  レムは無理してうなずいた。でも、あいつは大嫌いだ。  嫌なことは忘れようと、レムは夢中で身体を動かした。  大人たちが刈り取った麦束を運んで、長く張り渡した棒に架けていくのがレムたちの仕事だ。空は明るく晴れ、陽射しはもう夏を思わせた。数日こんな天気が続けば、麦の穂もよく乾くにちがいない。  日が高くなるにつれ、頭の上がちりちりしてきた。怒りにまかせて出てきたので、帽子を忘れてきたのだ。汗をぬぐいながら、レムはため息をついた。家に戻るのも面倒だった。今日は我慢するしかないだろう。  風向きが急に変わったのはその時だ。丘から吹き下ろす風が森からのものになり、みなの顔を涼しくなぶった。一抱えの麦を棒に架け終えたレムは顔を上げた。風にのって、なにかが飛んできた。それはゆらゆらと下降して、レムの頭にぽんとのった。つばの広い麦わら帽子だ。  まわりの子供たちがどっと、歓声をあげた。 「すごいな、レム」 「魔法使いが届けてくれたんだ」 「らしい」  レムは肩をいからせて、麦わら帽をかぶりなおした。ひんやりした風は時々森から吹いてきて、みなの汗を鎮めてくれた。  夕刻、レムは仲間たちと別れて家路についた。フォーヴァの顔を見るのも嫌だったが、しかたがない。  とりあえず、帽子の礼は言わなければ。礼儀知らずと思われては、トルグさんに申し訳ない。  家に入るとフォーヴァはいなかった。  二階にも、どこにも。  レムは、家のまわりをぐるりと探した。  広い庭の一角は香草畑になっていて、いまはラベンダーが真っ盛りだ。ミントが思うさま領域を広げ、その間でカモミールやオレガノ、チェリーセージが可憐な花をつけている。丈の高いローズマリーの茂みの向こうに森が見えた。その手前に〈穴〉がある。  レムは、〈穴〉の縁でフォーヴァを見つけた。  フォーヴァは、両膝をつき、身を乗り出すようにして〈穴〉を見つめていた。  レムが近づいたのも気づかない。膝の前に両手をついたまま、ぴくりとも動かなかった。 「フォーヴァさん」  レムはそっと声をかけた。  フォーヴァは応えない。  もともと表情のない顔がことさら面のように見えるのは、瞬きひとつしないせいだ。フォーヴァの目は、じっと〈穴〉の奥に向けられていた。  〈穴〉は、さながら虚無の池。フォーヴァの姿など映さない。かわりに、フォーヴァの薄灰色の瞳が〈穴〉を映してすっかり黒くなっていた。  白眼のところですら影を帯び、目そのものが、いまにも暗い虚になってしまいそうだ。  レムは、ぎょっとした。 「フォーヴァさん!」  レムは、とっさにフォーヴァに体当たりした。  二人はどさりと倒れ込んだ。  フォーヴァは瞬きした。レムは彼に覆いかぶさったまま、その顔をのぞき込んだ。  とらえどころのない薄色の目がレムを見返した。レムはほっとして彼から離れた。  フォーヴァは身を起こした。 「大丈夫? フォーヴァさん」  フォーヴァは、ぼんやりとうなずいた。 「〈穴〉を調べていた」 「わかった? なにか」 「いいや。捕まったのは、わたしの方だった」 「トルグさんは誰も近づけないように〈穴〉のまわりに結界を張っていた」 「自分も近づかないように」  フォーヴァはつぶやいた。  レムは、うなずいた。   トルグの言っていたことを思い出す。 「〈アンシュの呪い〉について、わかっていることはごくわずかだ。深くつきとめようとする魔法使いは、反対に呪いに囚われてしまう」 「囚われると、どうなるの?」 「アンシュのように、自分の力だけを追い求めるようになる。魔法というのは、人々の生活に役立つことだけに使われるべきものなんだ。自分の欲望のために使ってはならない。決して」  トルグは小さくため息をついた。 「くやしいが、わたしは呪いに対抗できるほど強くはない。わたしにできるのは、ただ〈穴〉を見張ることだけだ。誰にも危険がないように。それと、心得違いの魔法使いが誘惑されないように」  〈穴〉をのぞいた時、レムも引き込まれそうな気がしたけれど、魔法使いはもっと別の何かを感じるのかもしれない。トルグは、確かに〈穴〉を怖れていた。 「知ってたくせに」  レムはフォーヴァに言った。 「どうして」 「自分の力を試してみたかった。まだまだだな」  フォーヴァはゆっくりと立ち上がった。 「助かった。ありがとう」 「いえ」  フォーヴァが素直なので、レムは拍子抜けをした。 「帽子とおあいこということで」 「そうか」  にこりともせずフォーヴァは言い、歩き出した。  ふと立ち止まり、 「すまない。夕飯を作っていなかった」 「朝の残りでいいですよ」 「温め直そう」  自分の力を試してみたかった、とフォーヴァは言った。それ自体が欲望ではないのだろうか。  フォーヴァの細長い背中を眺めながらレムは考えた。  フォーヴァは〈穴〉に誘惑されたのか?   心得違いの魔法使い。  レムが見つけなければ、フォーヴァはどうなってしまったのだろう。あの目はそのまま黒に染まり、〈穴〉そっくりの虚となって──。  レムはぞくりとした。大人のくせに、妙なあやうさがフォーヴァにはある。  もう少し彼の様子を見ていよう、とレムは思った。  トルグも、それを望んでいるかもしれなかった。
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