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 懐かしい匂いだった。光の粒を胸いっぱいに吸い込むような、眩しくて、色褪せた、だけど大切な。 「こんばんは。久しぶりだね」  例えば、昔の映像みたいな。細く、高く低く、ほんの少しだけハスキーな声。  目を合わせられない微笑み。眩しいのは、比喩じゃなくて。  夜の暗闇。  光の翼。  色のない、眩い羽根。違う世界の夢みたいな光景が目の前にあって、それ以外なんて何もない。息も忘れるような、静かな夜だった。  眼の前。細っこい、女の子のシルエット。輪郭線。  光を、背に。  鉛筆で描いたような影。色のない眩さが、寄せては返すように伸縮する。  こんなにもあからさまな、特別な夜なのに。  新品の消しゴムみたいな、ざらついた寂しさ。僕はどうして泣きそうになっているのか。自分自身でも、よく分からなかった。  シャッターの閉まった商店街。眠っているのか死んでいるのかも分からないような、風もない夜。足音だけが生きている。 「静かだね」  声は、夢のように。 「……ふふっ。暗くて、誰も居なくて。まるで二人っきりになったみたい」  微笑む声は踊るように、響く。響かない。足音が揺れる。  振り返れば、色のない光がいくつも、いくつも滑り落ちる。羽根が、物言わぬ夜が、擦り切れたような光の粒を散らして、また黙り込む。 「僕は、何から聞けばいい?」  そして、こんなわざとらしい程の、始まりの予感。何が僕の前に訪れたのだろう。  白い息を数えるような沈黙。  何かが始まるような、物悲しさに。 「ううん。普通の話がいい」  似つかわしくない、緩んだ笑み。 「つまらない話がしたいよ。似合わないかな?」  なぜだろう、胸が痛いほどに。だけど素朴な、どこにでもある『日常』のような。眩しさなんて、とても似合わない表情だった。  ……ううん。眩しさなら、違う意味で似合うかもしれないな、と思い直す。  天使のような。  ひまわり畑の真ん中のような。それだけの、きっと白い服。  その背に揺れ落ちる羽根。本当は雪が降ってるのかも知れない。僕の息は白くて。 「じゃあさ。缶ジュースとか、飲める?」  この子が、寒くなければいいな。それだけの本音。落書きのような、白と黒の夜。  自販機の明かりを探して。先へと振り返って、生きている熱を探す。  そんな、僕が逸した視線の片隅で。祈るように微笑む吐息。 「わたし、ブラックのコーヒーがいいな」  思わず向き直る。彼女の笑みは平熱にとろけたような、淡い表情で。  思い出せたように。  その顔が、分かる。どうして気付かなかったのだろう。その顔に、似合わないブラックコーヒーを好きだとかいう人に、覚えがあった。  忘れていた。忘れていた?  ずっと一緒にいた、幼馴染の顔を。  どうして? どうしてか分からない。けれど。 「……似合わないかな?」  飾らない声。覚えている。  まだ覚えている。忘れたくない。白い服、白い翼。光のように遠い眩しさを飾る、馴染んだ……馴染んでいた、彼女の顔を。
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