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「ねぇ、もっと速く!」  手を引かれる。導かれるように。  呼吸が、足音が慌ただしく。息を潜めた夜を駆ける。 「もっと! ほら、もっと!」  カレンダーの裏に書いた落書きのような町並み。ちぎって。ちぎって。壊れた時計の代わりに。  足音が響く。笑い声が交じる。彼女の。ハスキーで細い、楽しげな、笑い声が。 ──突然の病だった。  いつしか、そう思い込んでいた。  足音は町を潜り抜ける。建物を背に、誰もいない広い道路へ。  きっと赤と黄色の、色のない明滅。緩いカーブの真ん中を走る。手を引かれて、光のない方へ。 ──世界が。  滅びかけていた。あとから、そう聞いた気がする。屋上。夕方。飛び越えれば二度と戻れない平穏を背に、ありがとうを言われたことがある。唐突に。  さよならの代わりだと分かった。訳だけが分からなかった。  手を離せば、また、そうなりそうで。 「夢がね……色褪せちゃうの!」  こんな風に! 彼女は無意味に回ってみせる。一瞬だけ追い越してしまって、遠心力のように駆け回される。  白。  黒。  誰もいない夜。世界は、滅びかけていたという。 「わたし……そんな、色になったの。知ってる? 水に溶ける色鉛筆があるんだよ……っ!」  息が切れて、なお楽しそうに。見慣れた町の片隅を、駆ける。駆ける。逃げ出すように。 「僕たち、どうして……走ってるの……っ?」  今さら、尋ねる。止まらない。笑い声が響く。 「知らない!」  まるで無意味に跳ねる。強く、手を引かれる。 「でも、行こう! ほんとはずっと、こうしたかったの!」  着地は適当、足がもつれてぶつかりそうになる。いつかの屋上、金網が世界と世界の境界線みたいなイメージが僕の声を遮るから。 「このまま……連れ出して……っ!」  僕の手を引きながら、彼女は叫ぶように笑う。さよならの代わり。さよならの続き。  さよならの向こう側。僕らは少しずつ、あまり見覚えのない景色へと駆けていく。黙り込んだ、  ありふれていた、世界の終わりみたいな景色を。  少しだけ。  今、違和感がよぎった。  振り返れば、足音のように落ちる羽根。色のない光。まるでこれから壊れるような世界から、抜け出すように、駆けている。  達観した。  諦観した。  そんな、間延びした生き急ぎ方。飲めもしないブラックのコーヒーが落ち着くだとか言って淡く微笑む、背伸びが板についたような女の子だった。  走ったところなんて初めて見たような。辻褄が合わなくなると、言っていた。どうなるかが決まっているから、と。  突然の病。また会いたいと思っていた。  もう会えないと、ずっと思っていた。分からない。けれど。  落書きみたいに、間違いだらけの町並みが遠ざかる。僕は、世界に誤魔化されていたのだと思い出したから。  下書きの輪郭線を解いてできた糸で、新しい世界を編み直す。そんな終末感。始まりは、きっと終わりに似ている。  真っ白な水溜まりを飛び越える。悲しいくらいに舞い散る羽根を溶かして。  見えるはずなんてないのに。  見下ろした自分自身と、目があった気がして。  着地したあと、きっと彼女の手を引き止めてしまっていた。本当は世界に色を滲ませて、溶けてしまっていた彼女の手を。  ありふれていた。世界の終わり。  過去の話だ。  彼女を亡くして、もう二十年になる。  僕は──俺は。唐突に、そう思い出していた。
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