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4.爵位を継ぐ
私は息を呑んだ。
それは――、その話は!
小さい頃乳母から何度か聞かされた話だ。
「お嬢様だって小さい頃旦那様とお出かけになったことがあるんですよ。湖の方へね。二人っきりでボートに乗るというので、旦那様はたいそう不安そうな顔をしていらっしゃいました。まだ幼子のお嬢様と二人っきりで、しかも普段は面倒を見ていないので、何かトラブルが起こったらどう対処してよいか分からないと緊張してましたね。実際お嬢様は野生の白鳥に喜んでボートの上に立とうとしたとか。まったく肝が冷えたと仰ってましたが、お嬢様は可愛らしくきょとんとしたまんまで、ついには旦那様も笑っていましたね」
その話をトマスが知ってる――?
私はどういうことかと食い入るようにトマスを見つめた。
しかしトマスの方は私の動揺に全く気付いていなかった。
しみじみと何かを思い出すような顔で、
「この話もしばらく忘れていました。お父さんはボートの上の女の子の好奇心いっぱいの笑顔を本当に愛おしく思って忘れられず、その子の好きなジンジャークッキーを白鳥の形にしたと言っていました。今思うと小さな女の子ってエマ様のことですよね」
と言った。
私は気づいたら泣いていた。大粒の涙がポロポロと目からあふれて頬を伝っていた。
トマスはようやく私の取り乱しように気付いて「あっ」と短く声をあげた。
そして見るからに狼狽えて、
「すみません! 何か言ってはいけないことを言ってしまいました」
と頭を下げて謝った。
私はゆっくりとハンカチで涙をこすり取ると首を横に振った。
「知らなかったの。このクッキーが私に由来していたなんて。それほど、父の胸の中に私がいたなんて。父はそういうのを私に伝えてくれたことはなかったから」
「そ、そうだったんですか……」
トマスは恐縮したままだ。
「父はそんなクッキーをあなたにも食べさせたのね。私の――クッキーを。父が何を考えているのか、これまで私はよく分からなかったわ、でも――」
初めて知った、父の別な顔。
私はここ半年ほど空虚な時間の中を彷徨っていたが、ようやく久しぶりに人間の心を感じた気がした。
私は独り言のように続けた。
「ラモント男爵の爵位を継ぐかどうか迷っていたわ。ここんとこずっと父の遺した事業の片付けばっかりしていて、なんで私が父の後始末をとうんざりしていたの。血は繋がっていても、あの人は他人だと思っていたから。――でも、継ぐことにするわ」
トマスはどう返事をしたものか分からず、頷くだけで黙っていた。
私ははっきりと言った。
「トマス、あなたは私の異母弟なのか本当のところは分からないわ。でも、もう姉弟ってことでいいと思ってる。今の私はだいぶヤケクソみたいになってるのかもしれないけど。あなたたち母子が私の幸せを奪ったのか、私が虚しい日を送っていたのがあなたたちのせいだったのか、そんなことは分からない。でも、何でかしらね、今のところは恨む気持ちになってはいないのよ」
父がこの母子を愛した理由なんて、私たち以外の人間を家族にしたことなんて、私はどういう風に受け止めたらよいのか本当はピンときていない。
でも今私の胸にあるのは、父が少なくとも私を可愛がってくれた事があるという、何か人生への肯定感のようなものだ。
私はジンジャークッキーを手に取り、不格好なその形をゆっくりと眺めてから、それから幸福な気持ちでパクっと口に入れた。
鼻に抜けるジンジャーの香り、舌を喜ばすほんのりした甘み。
私は微笑んで、トマスにも「もっとどうぞ」とジンジャークッキーを勧めた。
(終わり)
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