あのころの……

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あのころの……

 僕は団地の階段を最上階の五階まで一気に駆け上がるとランドセルから紐でぶら下げられた鍵で公団カラーと呼ばれる淡いグリーンに塗られた鉄扉を開ける。玄関先には兄の運動靴、その奥からはいつもカチャカチャと鳴る音が聞こえてきた。 「お兄ちゃ――ん」  僕は兄にそう呼びかけながらキッチンに向かう。はたしてそこでは兄が慣れた手つきでボウル片手に菜箸をかき混ぜていた。  テレビから流れる「コンニチワ~」の歌声、それに覆いかぶさるようにフライパンから「ジュワ――」とした音、僕は兄の(かたわ)らでそれができあがるのを今か今かと待つこの時間が大好きだった。  どんどん焼き。  兄がいつも作るおやつはそんな名前だった。小麦粉に水と少しばかりの砂糖を混ぜて焼くだけのおやつ。卵なんて、バターなんて、そんなものはありません。それでも駄菓子屋のお菓子なんかより全然おいしかったなぁ……。  そして調子に乗って二枚も食べようものならお腹いっぱいになっちゃって、晩ご飯が入らなくて、そのたびにお母さんに叱られたっけ。 ――*――  バブル前夜の東京、フレンチのビストロやイタ飯のトラットリアがあちらこちらにできはじめ、それらがみな女性たちに人気になっていた頃、僕はやはり同じように増え始めたタンドール窯を備えたインド料理店が気になっていた。  それはバイトの給料日、僕はちょっとだけ背伸びをして最近オープンしたインド料理店に彼女を招待した。 「わたし、インド料理なんて初めて。やっぱりカレーなのかな」 「うん、でもご飯じゃなくてナンって言うパンみたいなので食べるらしいよ」  僕は前もって調べておいたほんの少しの知識を話したが彼女は興味があるのかないのかそれほどのリアクションもなくこれから料理が運ばれてくるであろうキッチンの方をぼんやりと見つめていた。  やがて清潔感のある白いYシャツに銀縁メガネをかけたインド系と思しき男性が両腕にトレイを載せてこちらに向かってきた。  男性はニコリと微笑んで僕たちのテーブルに料理を並べる。そこではひときわ目を引く薄く巨大なパンのようなものが溶かしバターの黄色い光をキラキラと反射させていた。どうやらそれが「ナン」という食べものらしい。僕と彼女は熱々のナンに悪戦苦闘しながらも、ようやっとちぎった一切れを口に運んだ。  僕にとって初めてのナン、それは香ばしくて、もっちりしていて、ほんのりと甘みがあって、とてもエキゾチックなのに、でもそれはどことなく兄のどんどん焼きを思い起こさせる味だった。 お兄ちゃんのどんどん焼き ―― 完 ――
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