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「私、ずっと彼氏が欲しかったんです」
「はあ……」
夜のベンチに男と女の2人。目の前にはこの世の景色とは思えないほどの満開の桜。屋台の喧騒をBGMに片手にビール、そしてもう片方には焼き鳥を手にしている。
我々の今置かれている現状を説明すればなんて趣きがあるシチュエーションなのだろうと思う。実際には仕事帰りの草臥れたOLと髪も髭も手入れが行き届いておらず、服も薄汚れていて袖も裾も伸び切っていた。
私たちの冴えない風貌はレディースコミックも裸足で逃げ出すだろうと簡単に想像できる。
「ちゃんと聞いてます?」
「はい……」
「田舎よりはマシですけど、周りがみんな結婚していく中で何度彼氏いないの?って言われたことか……」
「ああ……」
「これでも彼氏はいたんです。酷い恋人でした。もう別れましたけど」
「酷い……ですか。具体的には?」
まるで知人と喋るかのように話す。しかし私たちは偶然数あるベンチの中で隣に座っただけの他人だ。
隣に座る男は私の圧に負けたのか、会話をする意思を見せた。男の顔は見るからにやつれていて、普段から栄養のあるものを食べていないだろう。気力も無く、さっきから1度も目が合わない。
「たとえば……」
私は元彼にされた仕打ちを淡々と話してみせた。その内容は家族や特別仲の良い友人相手にすら口にすることを憚られる内容である。
「酷い……」
「酷いでしょう? それに、起業するからお金を貸してほしいって頼まれたんです。絶対に成功させるから……って」
「まさか……」
「ええ、貸しましたよ。結局失敗したのか、貸したお金はそのままで音信不通になりましたけど。あのときは私もどうかしてました……それに、私も悪かった部分があるんです」
隣を見れば男は心底同情したようで、肩を震わせて涙を流していた。私がもっと感情表現豊かだったらもっと悲しんでくれたに違いない。
「そんなことありませんよ。仮にそうだとしても、その元彼が貴女にした行為は許されるものじゃありません……! まるで悪魔だ……!」
「ははは……。ありがとうございます。でも私も頭のおかしい人間なんです。……実は私、昔から幽霊が見えるんです」
顔全体の筋肉を使って悲しみを表していた表情が一転して、面白いくらい男はぽかんと口を開けたままこちらを凝視した。実は意外と表情豊かな人なのかもしれない。
加えて老け込んでいるように見えるが、こうしてみると私と同じぐらいの年齢なのかもと思った。もしそうなら少し同情する。
「…………。貴女は両手にビールと焼き鳥ではなく今すぐに保険証を持って精神科に行くべきだ」
「いきなり人を病人扱いしないでください。それに病院には昔行きましたよ。母に無理矢理手を引かれてですけど」
心に芽生えた小さな同情心は男自身の言葉に焼き払われた。馬鹿馬鹿しい。手にしていたビールを思いっきり飲み込んだ。
「じゃあ良くなったんですね」
安心したのか眉尻が下がった。やはりわかりやすい。
「いいえ。まだ見えてます。たとえば信号の下で立っている血塗れの男の人とか、胡散臭い笑顔を貼り付けた男性の肩にへばり付いている女の人の霊とか。あとは……」
初めて幽霊を見たのは7歳の暑い夏の日だった。神社で行われた夏祭りの屋台の通りを母と手を繋ぎながら歩いていたのを覚えている。
ふと、どこからか視線を感じた。それが子どもながらに恐ろしくて視線の主を必死に探す。たくさんの屋台が並び、カラフルな老若男女が歩いている中でそれを見つけた。いや、見つけたというよりは、レンズのピントが合ったような感覚。
そして私は自分から視線の正体を探したことを後悔した。
私を見ていたのは髪が長く、夏なのに白い長袖のワンピースを着た女性。それだけならまだ良かった。その人は笑っていた。血が通っていないと容易に想像できるほどの病的な青白い肌。少しの光も入っていない真っ黒な瞳。
その日は猛暑だったはずなのに、その人が立っている場所は微塵も熱を孕んでいなかった。目がおかしくなったのだろうか。不自然な光景に悪寒が走る。持っていたわたあめを地面にグシャリと落として必死に母に縋り付いた。
急に泣き出した私に母は背中をさすってくれたが、内心戸惑っていただろう。訳を聞かれた。私は母に顔を埋めながら女性がいた方向を指して訴えた。
『誰もいないじゃない』
あんなに心配してくれた母が、気付けば不気味そうに私を見ていた顔を今もはっきりと脳に焼き付いている。
「わかりました、わかりましたから……! もう結構です……。先程は失礼なことを言ってすみませんでした……」
「わかってくれればいいんです」
「……まあ、それでもその男性が悪魔なことには変わりありませんよ。やっぱりこの世には一定数、同じ人間とは思えない存在がいますね……」
「……と言いますと?」
「数年前の話です。俺も悪魔のような、いや、それよりも恐ろしい男に出会ったことがあります。……少し長くなりますが、聞いてくれますか?」
正気のない顔で俯きながら私の話を聞いていた様子とは変わって、真っ直ぐこちらを見ながら男は問いかけた。
「もちろんですよ」
即答する。なぜなら私は彼が話してくれるのをずっと待っていたのだから。
***
「お姉さん、もしかして僕が見えていますか?」
「見えていますね」
「ああ……! ようやくだ! 僕が死んで数年、ようやく出会えた!」
私は元々呑気にお花見をしにここまで来た訳ではない。
たくさんある桜の木の中でひとつだけ不自然なくらい美しい桜があった。
盛り上がっている人たちのすぐそばに頭から血を流している男が立っている。幽霊だ。スーツを着ている人ばかりで一瞬見間違えたかと思った。よく目を凝らして見ると足元が透けている。
ずっと視線を送り続けていたせいか、とうとう男と目が合ってしまった。面倒くさいのでなにも無かったかのように目を逸らす。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
駄目だった。幽霊にしてはあまりにも爽やかで声量がある男に私は捕まってしまう。
そうして私は毛玉がたくさん付いたヨレヨレの男が隣に座るまで、彼と話すことになる。
「いやあ! 久しぶりに誰かと会話をしますよ! 嬉しいです!」
「そうなんですね」
「ええそうですよ! ところでお姉さんもここへはお花見に?」
「まあ……。それにしてもこの桜は他の桜よりも綺麗ですよね」
嘘だ。目についた桜に話題を逸らす。しかしそんなことは気付かずに男は話を続けた。
「そうでしょうそうでしょう! お姉さんは梶井基次郎の『桜の樹の下には』という作品は読んだことありますか?」
「1度だけ……。確か、桜の木の下には死体が埋まっているっていう都市伝説の元ネタになった話ですよね?」
「その通りです。話は戻りますが、なぜこの桜の木は他の木よりも美しいと思いますか?」
桜の木のそばにいた幽霊、気味が悪いほど美しい桜に有名な小説。答えは明白だった。
「あの桜の下に、貴方の死体が実際に埋まっている」
「お見事!」
「それで? 私に話しかけたということは遺体を掘り返して欲しいんですか?」
わざわざ生身の人間に声をかける理由など、自分の生前の器を見つけて欲しいだの、無念を晴らして欲しいだの、寂しい、苦しい、助けて欲しいばかりだ。彼もそうなのだろうと睨み、ジトっとした目を向けた。
「違いますよ! 最後まで聞いてください。少し長くなります。お姉さんこの後の予定は?」
「ここで人と会う予定が」
「それは何時くらいでしょう?」
「わかりません。約束しないままここへ来てしまったので……。ここから動かなくていいなら聞きますよ」
そう言うと彼の顔はたちまち晴れやかになった。土気色の顔に笑顔なことがおかしくて思わず笑ってしまう。
「ありがとうございます! 申し遅れました。俺は鈴木咲と言います」
「これはどうもご丁寧に。私は桜井美月です」
むしろこちらが気分が晴れやかになるような感謝の言葉を彼は述べた。そしてすぐ馴れ馴れしい態度や笑顔が嘘のみたいに真剣な顔つきになる。
「俺には親友と呼べる男がいました。けど数年前、とある出来事がきっかけで親友と喧嘩してそれっきり」
「仲直りしなかったんですか?」
聞くと男は寂しそうな、消えてしまいそうな笑みを浮かべた。
「できませんでした。なぜなら俺はその後すぐに殺されてしまいましたから」
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