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「ようこそ。いらっしゃいませ」扉の覗き窓から目を出していた男が言った。声は低くかったが、白のYシャツ、黒のスラックスに革靴の姿で、典型的な接客業の服装をしていた。
「こちらへどうぞ」と案内され、黒木は通路を奥へ進んでいった。
通路は薄暗く、照度の低いダウンライトで照らされている。廊下の突き当たりに、ビロードのカーテンがあり、案内人の男がその前に黒木を招き寄せ、「こちらです。たっぷりとお楽しみくださいませ」とカーテンをひいた。
まぶしい光に目が眩み、黒木は、騒々しい掛け声と、食器や調理器具のぶつかりあう音を聞いた。
「チキン南蛮定食! いっちょう!」
「幕の内御膳! 承りました!」
「ナポリタン! 入りました!」
「チャーハン、イーガー! 回鍋肉、リャンガー!」
黒木が入った部屋の中は、テーブルが並び、食事をしている人でいっぱいだった。皆、相当に腹を空かせているとみえて、料理にむしゃぶりついていた。黒木は様々な料理のにおいがしていて、空腹の極みだった彼は、身悶えするほどの興奮をおぼえた。
黒木はカウンター席に案内された。
「お客さん。何になさいます?」と、今度は黒服の店員が言ってきた。
「メニューとかはないの?」と黒木は訊いた。
黒服の店員は、自信たっぷりな営業スマイルをすると「当店には、メニューなどございません。お客様が何にをご注文されましても、当店はお客様に最高のものを提供させていただくことができます」
黒木はごくりと生唾を飲んだ。
「それじゃ、豚骨ラーメンとかお願いできるのかな?」
黒服は万事お任せあれ。と、いったお辞儀をすると「豚骨ラーメン! もういっちょう!」と厨房に向かって言った。
もういっちょう?
すると、黒木の隣の席に座っていた男の前にカウンター越しから、湯気の立ちのぼるどんぶり鉢が現れた。豚骨からとったダシの透き通るような白いスープ、一滴も残らず吸い付くしたい。今すぐにでも、かぶりつきたい衝動に駆られるむっちりとした肉厚のチャーシュー。滴るスープとともに、これでもか! ここがいいのか! とすすり上げたくなる細麺。隅から隅まで味わい尽くしたいと思える豚骨ラーメンが目の前にあった。
隣の男が、豚骨ラーメンを食べだした。が、黒木の垂涎もののーーいや実際よだれを垂らしていたーーの顔を見ると、背中で隠すようにして食べだした。
「お待たせしました。豚骨ラーメンです」との声。黒木は前を向くと、目の前にあの豚骨ラーメンが置かれていた。
黒木は、やや焦り気味に箸立てから割り箸を取り、割り、擦り(割り箸の木屑を取る行為として行う人もいるが、あまり行儀はよくないとされている)、箸をつけようとした。
そこを黒服の男が制した。「お客さん。ここは料金前払いでね。先にお代をいただきますよ」
寸でのところで、おあずけを食らわされた黒木は、イラついて訊いた。「いくらなんだ?」
黒服の男は言った。「一万円。頂戴いたします」
黒木はびっくりぎょうてんした。「高すぎるじゃないか!? ぼったくりじゃないか!」
黒服の男の表情が変わった。
「人聞きの悪いことを言うんじゃねえよ。もう作っちまったんだから、金払ってもらわなきゃ困るぜ」黒服は言った。「もし食わねえなら、キャンセル料は五千円だぜ」
恐ろしい店に入ってしまった。空腹のあまりとはいえ、とんでもない場所に足を踏み入れてしまった。食べたかった豚骨ラーメンでも、一万円は払えない。しかし、食べなくても五千円をドブに捨てることになってしまう。黒木は浅はかな行動をとった自分を後悔した。
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