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3.
マンションに戻って、部屋着に着替えて。
作り置きと、冷凍しておいたご飯で夕食。
これけっこう美味しかったから、また作ろうかな…
炒め野菜のナムルに竹輪を加えたレシピは、副菜というよりも主菜に近い仕上がりだった。
少し濃い目の味になったからかもしれない。
明日は帰りにスーパーに寄ろう。
確かお肉が特売のはず。
主菜の焼鮭に箸を伸ばしたところで、テーブルの上のスマホが振動した。
何気なく見て、目を疑う。
「…………え」
着信、鳴海副社長……って。
確かに今日、仕事の繋がりができたから登録した、けど。
「……え!?」
なななな、なんで!?
「仕事!?仕事なの……!?」
こっちは右手に箸、左手にお茶碗。
今はどう考えても仕事の頭じゃない。
「いや、でも、仕事の……」
出ないわけにもいかない。
何かあればいつでも連絡してください、と言ったし。
ていうか、この時間でまだ仕事してるの…?
壁掛時計は、20時半を指している。
慌てながらも箸とお茶碗を置いて、スマホを手に取った。
「…はい、有澤です」
『…鳴海です』
「あ…今日はどうもありがとうございました」
『こちらこそ、足を運んでいただいてありがとうございました。さすが喜原屋さん、動きが早いなと思いました』
「いえ、おそれいります…」
普通に仕事のやり取りをしてるのが、すごく変な気分だった。
だって、目の前には一人暮らし三十路女の現実的な夕ごはんがあって、ちょっとおしゃれな部屋着を着てるけど、頭はちょんまげだ。
しかも、さっきまで脳内はスーパーの特売情報でいっぱいだった。
この落差よ…
「その後、何かありましたか?」
声だけが仕事用のそれになっていて、油断すると笑えてきそうだ。
『えぇ、今日いただいたカタログの商品情報を、データでいただけないかと思いまして』
自分に全権はあるとはいえ、本社の社員とも協議したい。
そのためにはデータの方が都合がよいとのことだった。
それは最もだ。
「明日、朝一番でメールいたします」
恐縮しながら、そう答えた。
むしろこちらがデータを用意するべきだったのだ。
GrandOcean側は、こちらに来ているのは今のところ副社長ひとり。
ホテル建設がまだ着工していないことと、計画段階が完了していないためだが、今後それぞれの担当がこちらに集まってくるとは聞いている。
今、社長や道内の本社社員との連絡は、ほぼオンラインだと言っていたのだから、その時点で用意する商品情報はデータであるべきだと気付くべきだった。
「私の方が気が利かず、申し訳ございませんでした」
対面ではないとわかっているけど、つい深々と頭を下げてしまう。
どうして気づかなかったの……!?
彼との再会で、仕事に集中しきれていなかったとしか思えない。
『いえ、こちらから言うべきだったんです。事前に青野さんの方から打診はあったのですが、その時つい紙ベースで良いと答えてしまって。今自分が東京にいると、まだ実感が湧いていないんでしょうね』
電話の向こうで、苦笑いしている気配がする。
と同時に、少しほっとしている自分に気付く。
それならよかったけど…
でも、思いつかなかったのはやっぱり失態だ。
もっと気を引き締めないとまずい…
小さなミスは、放っておくと大きなミスを呼ぶ。
「そうだったんですね」
『はい。そんなわけで申し訳ありませんが…よろしくお願いします』
「かしこまりました。それではまた明日」
『あ…』
「?」
『…………』
何か言いかけて、言おうかやめようか迷っている。
そんな様子。
なんだろう…まさか。
「他にも何か……?」
『…有澤、さん?』
………あ。これ、は…
「…はい」
『…先週の、ことなんですが…』
「…………」
やっぱり。
覚えてないはずがない、よね…
あの夜、酔っていたのは私だけで。
彼は、史朗さんは。
全然、酔ってなかった。
酔ってなくて、あんなこと……
小さく息を吐く音。
そして。
『澄香……?』
その声に、どくん、と心臓が跳ねる。
たった今、きちんと仕事に集中しようと決めたばかりなのに。
名前を呼ばれたら、仕事の空気はあっけなく消えた。
私も、呼んでもいいの……?
「…史朗、さん…?」
『………うん』
「…………」
たったそれだけのやり取りで、私を包む空気があの夜のものに戻ってしまう。
たぶん、彼も…
『…また会うことになるとは、思っていなくて』
「わ、わかってます。あの夜のことは…」
お互い無かったことにしましょう、って。
ことだよね……?
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