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4.
その日の午後、岩崎さんは体調がすぐれないと言って早退した。
入れ替わりで外回りから戻ってきた青野は、空席を見てなんとも言えない表情を浮かべていた。
「あれ、なんなんすか」
「さぁ…」
門平くんの探りをかわしてトイレに逃げると、トイレの中でも女子社員の噂話に花が咲いていた。
予想通りの展開……
莉奈の言う通り、すでにかなり、噂は広まっている。
「慰めてあげたいなー」
「やだー」
そんな甘い声を聞きながら、ひとり個室の中でため息をついた。
青野はそんなの求めてないよ…
明日から出張なのは酷だと思ったけど、むしろ良かったのかもしれない。
こんな状況の中に置かれるのは気の毒すぎる。
莉奈の言う通り、少し離れて冷静になる方が良さそう…
どっちにしろ、私がヤキモキしていてもどうにもならない。
二人のことは二人で収めてもらうしかないし、私は自分の仕事をきっちりやって、岩崎さんの抜ける穴を埋めなければならない。
来週までの出勤なら、そのあとの予定を立てておかないと。
「…よし」
トイレから出てフロアへもどり、また何か言いたげな門平くんをあしらって奥村さんを呼んだ。
「はい、何ですか?」
「今、手が空く?」
「大丈夫です」
「じゃぁ、門平くんも一緒に。ちょっと休憩がてらミーテイングしよう」
「よっしゃ。お菓子いります?」
「「いる」」
「今すぐ持ってくるっす」
席を立った門平くんを追うように、奥村さんが「コーヒー淹れてきます」と出て行く。
それならと、さっきまでの続きの仕事を片付けるべくパソコンに向かった。
退社後、駅に向かって歩いているとスマホから通知音がした。
足を止めて確認すると、莉奈から金曜の件で青野の了解を得たことと、場所の予約が済んだという連絡だった。
「早い…」
莉奈はいつも行動が早い。
それに比べて、なかなか動き出せないタイプの自分をもどかしく思うことも多い。
もっと頑張らないとなぁ……
仕事もプライベートも、年齢を重ねて出来ることは増えていくけれど。
年を取れば、出来ないことも増えていくわけで。
無理はしたくないけど、もう少し積極的になってみてもいいのかも。
そんなふうに思った。
「……あ、そうだ」
週末の史朗さんとの予定のために、何か新しいメニューを取り入れようかと考えていた。
「本屋さんに寄っていこうかな…」
ネットでいくらでも検索できるけど、レシピブックを見るのが昔から好きなのだ。
好き嫌いも、訊いておきたいし…
バッグにしまいかけていたスマホをもう一度取り出す。
歩道の端に寄って、少し考えて。
『土曜日はどんなメニューが食べたいですか?ご希望や、好き嫌いを教えてください』
「送信……」
ポチ、とタップしたら。
ほとんど同時に既読がついた。
「え……」
ちょうど見てた、とか?
ドキッとした瞬間、今度は新しいメッセージの通知音。
「!」
画面に目を戻すと。
『何でも食べられるよ。好き嫌いはないから』
「えー……そうなんだ」
そんなことすら素敵に思えるって、わたしはどれだけこの人が好きなんだろう……
『メニューはリクエスト可なの?』
続いて送られてきたメッセージに、急いで返事をする。
『はい、大丈夫です』
と送ってから、あまり難しいのは無理だったと焦り付け加える。
『そんなに難しくなければ、です』
『わかった。少し考えてもいい?』
わざわざ考えてくれるんだ……
さっきから胸キュンが止まらなくて、顔が熱い。
『もちろんです』
『じゃぁ明日までに考えるよ』
『わかりました』
あぁもう、楽しみでしかない…っ
ひとりニヤニヤしながら、再び駅へ向かって歩き始める。
バッグにしまったスマホがまた通知を知らせてきた。
今度は着信だ。
史朗さん…?
声が聴けるかもと、再び高鳴る心臓。
でも急いで引っ張り出したスマホの液晶には、お母さんの文字が浮かんでいた。
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