迷い蜂

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
迷い蜂 第1話  永太郎は苛ついていた。趣味の水彩画を居間で描いていたのだが、絵筆が思うように動かないし、絵の具を出しても狙った色が作れない。それ以前に、デッサンも上手くできていない。「これでは子供のラクガキ以下だ」と思ったら虚しくなり、透明の筆洗器に筆を放り投げた。  永太郎は、あいつが悪い、と言わんばかりに籐の籠に入ったモチーフの果実を睨む。赤く鮮やかに輝くリンゴが、自分の技術の低さを私のせいにするな、と反論して怒っているように見えた。  正午を少し回った昼下がり。五月の陽光が、リンゴの赤を一層際立たせていた。  「今日はなんだかずいぶんと怠いな。そのせいか、ちっとも気分が乗らん」  小さく溜息をついた後で、居間の壁をぐるりと見渡す。永太郎がこれまでに描いたいくつかの水彩画が、簡素な額に入れられて飾ってある。その数は全部で12枚。一年の十二ヵ月の景色を切り取ったものだ。A2サイズの大きさのものが2枚あり、他はA4ほどの小振りなサイズばかり。もちろん描いた枚数はこれよりもはるかに多い。その中から、永太郎の妻の順子が厳選したものが壁を彩っている。  永太郎はそれらを見渡し、もう一度、今度は大きく、溜息をついた。そして、冷蔵庫に入っている冷えたビールを取りに行くために、椅子から立ち上がった。  「どっこい・・・しょっと、ぁいたたた」  すでに老人と言っても差し支えない74歳の身体に、座りっ放しは腰に来る。永太郎は、椅子から立ち上がったその場で、自分の腰に両の手を当て、猫背になって固まった背中をやや後ろへぐーっと伸ばした。後ろへひっくり返るギリギリのところで「ふう」と一息ついてから真っ直ぐに戻る。右の脇腹が痛んだ。  ゆっくりとした足取りでキッチンまで歩くと、冷蔵庫の扉を開けた。中には好みの缶ビールが2種類、ほぼ同じ数だけよく冷やされて入っている。他には、野菜を中心とした食材が少々、食パン、スーパーに売られているお惣菜の残り物や漬物など、テーブルに出すだけで食べられるものばかりだ。  冷蔵庫を覗き込む姿のまま、どちらのビールを飲もうか迷ったが、はた、と思い出した。  「あぁ、そうだ。今日は仏壇に供えるものを買いに出にゃならん。飲んだらダメじゃないか」  誰にともなくそう言うと、永太郎は口惜しそうな表情で冷蔵庫の扉を閉めた。その時、扉の中でブルーベリー・ジャムの瓶詰めが、がちゃりと音を立てた。その音に、永太郎は敏感に反応し、曇った顔をして、苦しそうに笑った。  「・・・こう、音が鳴るような閉め方をすると、よぉ順子に怒られとったなぁ」  まだ再雇用制度のなかった大手広告代理店を60歳で定年退職した。  その後は、仕事で付き合いのあった出版社から挿絵描きのアルバイトを時々もらい、退職金を大事に使いつつ生活していた。そして、65歳になってすぐに都心近郊の自宅を生前贈与という形で長男に譲った。その年齢まで待ったのは贈与税の軽減のためだ。滞りなく手続きを済ませた後、貯金を叩いて栃木県那須塩原にある別荘地に、ロフト付き1LDKの小さなロッジのようなデザインの格安物件を買い、夫婦で移り住んだのが8年前だ。  家の脇にある、順子が作った花壇には四季折々の花が咲き、車で少し行けば掛け流しの温泉にも入れる。冬の間は積雪が厄介だが、自治体のボランティアが雪かきをしっかりとしてくれるので、転倒にさえ気を付ければそれもまた風情だ。決して多くはない年金で慎ましやかに、夫婦水入らずで老後を過ごすにはちょうどいい、と思っていた。  ところが2年前、妻の順子は風邪をこじらせて肺炎になり、それが原因で他界した。  永太郎は独りになった。  長男からは『その家を処分して戻ってきたらいい』と言われたが、すでにこの家には、順子との思い出がそこかしこに詰まっており、手放す気にはなれなかった。  冷蔵庫に限らず、部屋のドアなどを音を立てて閉めると順子は必ず機嫌を損ねた。何かが壊れるような大きな音が大嫌いだったのだ。『私たちが重ねてきた想い出まで壊れそうな気がして、嫌なのよ』と言っていたのを永太郎はよく憶えている。  だから、というわけではないが、寝るとき以外は窓も玄関も開けっ放しだ。この時季の風は心地いい。暑くもなく寒くもなく、非常に爽やかな空気が流れてくる。何より永太郎は、順子が大きな音を嫌うのと同じくらいに、部屋の中の空気が澱むのを嫌ったのだ。順子の感覚に似ているのかもしれない、と永太郎は思った。部屋の空気は自分たちの暮らしの息遣いであり、五感を刺激するエネルギーのようなものだ。それが澱み、蓄積したままに放置すると、いつしか腐ってしまうような強迫観念にとらわれ、永太郎にはひどく恐ろしく思えたのだ。  それだから毎日、朝の目覚めとともに永太郎は窓も玄関も全開にする。金目のものなどない老人の家に、空き巣など入ってくるはずがない、という根拠のない確信があった。そして今も、そのままで買い物に出掛けようと玄関を出たところだった。  「おじいさん」  玄関の脇に、見憶えのない若い女が立っていた。はつらつとした雰囲気で、女子高生くらいの年齢に見える女の子が、人懐こそうな笑顔で声を掛けてきた。  「はいよ・・・どちらさん?」  いくぶん訝しげな表情で、永太郎はその女を見た。  「おじいさん、この家の人だよね」  「こら、こっちが先に訊いたんだ。名を名乗るのが礼儀じゃろ」  「あ・・・あっはは、ごめんなさい。オレ、西 美香」  「こらこら、女の子が自分のことを『オレ』なんて言っちゃいかん。『私』もしくは『あたし』だろう」  「そんなのどーでもいーじゃん。それより、この家の人なんでしょ?」  「あ、あぁ。そうだ」  「この家、すごくいいねぇ。小さいけど、すごく可愛い」  「あぁ、いいだろ? まぁ、中古で買った格安物件だがな」  「ねねね、どこか買い物に行くんでしょ? オレ、留守番しててあげる」  永太郎はその女の、やけに馴れ馴れしい態度に戸惑っていた。  首元が大きく開いた白いTシャツに、袖をたくし上げた薄いブルーのパーカー、昔でいうところのホットパンツに素足にサンダル姿、頭には野球帽・・・小学生の男の子の服装だな、というのが永太郎の率直な感想だった。悪戯坊主の出で立ちではあるが非常に澄んだ眼をしており、悪いやつではない、という妙な安心感が永太郎の胸にはあった。  これでも人を見る目はある、ここはこの女の提案通り、留守番をしてもらっても大丈夫だろう。(なぁに、盗むものなんてありゃせんし・・・)  永太郎はポケットの中に車のキーの所在を確かめながら言った。  「・・・そうか? ではほんの一時間ほどで戻ってくるから、頼まれてくれるか」  「うん、気を付けて行ってらっしゃい」  4WDの軽ワゴン車のエンジンをかけ、暖機運転もそこそこに走り出す。ルームミラーの中で、先ほどの女の子が笑顔で手を振る姿が小さくなっていった。                            つづく    
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!