0人が本棚に入れています
本棚に追加
騙された。ああ、騙された。
私は自分の陳腐な失恋に号泣していた。
思うに、私は初めてのことがたくさんで舞い上がっていたのだ。地方の女子高出身の私にとって、上京したての大学生活は刺激で溢れていた。
初めての東京。初めてのコンパ。そして、初めての先輩。かっこいい先輩から、おしゃれなレストランで「好きだ」なんて言われてしまったら、それだけでもう天にも昇る心地がしてしまった。
もちろん、私は遊ばれていたのだ。「女子高育ちはちょろい」から、弄ばれていたのだ。先輩が自慢げに友達に話していたのを聞いてしまったのだ。
私と先輩のことを、そんなふうに友達に話してしまっているとは。そして私は遊ばれているとは。ショックだった。世界全部に裏切られたような気がした。
残念ながら、私は頭が悪くなかった。これが小説にもならないほどよくある話だということが分かっていたし、告白してもらった時にも「本当は遊ばれているだけなんじゃ」などと危惧していた。
それでも、やっぱり、自分は全世界で一番不幸な娘のような感じがした。
だから、私は、今日はとことん悪い娘になるのだ。
そう思って、安い居酒屋で、慣れないお酒をたくさん飲んだ。あえて、ご飯をあまり食べないままたくさん飲んで、すぐに酔おうとした。それでも今日はなぜかなかなか酔えなくて、いつもよりお酒を何杯も飲んだ。
次第に目の前の世界がよく分からなくなって、お金が心配になってきて、そこで飲むのをやめた。
歩いていると、ついさっきまでは何ともなかったのに、目の前の景色がコマ送りになってきて、うまく呼吸できなくなってきた。途中、コンビニのトイレで吐いて、お茶を買って飲んだ。
まだ少しフラフラしながら歩いて帰っていると、また気持ち悪くなってきて、道でうずくまり、コンビニでもらった袋を口に当てて休んだ。
「あの〜。」
ぼうっとしていると、背後から声をかけられた。
「あの〜、もうすぐ閉店なのですが……。」
え、と思って顔を上げると、割烹着姿の男性が立っていた。
気がつくと、目の前は定食屋の看板だった。近所の定食屋だ。よく言えば昔ながらの味がある定食屋、悪く言えばオンボロの定食屋、という感じで、いつもは素通りしていた所だった。とすると、この人は店員さんなのだろう。思いの外若い店員さんだった。バイトだろうか。
「あ〜、えっと。」
すみません、帰ります、と言おうとしたら、
「何か、食べて行かれますか?」
と尋ねられた。
そういえば、お腹が空いている。何も食べていないのに加えて、吐いてしまったから、お腹の中が本当に空っぽである。ちょうど、ぐうう、と、お腹が鳴った。
「あ、じゃあ、お願いします。」
と恐縮しつつ言うと、店内に通された。
「何を注文しますか?」
と聞かれ、まだぼうっとした頭で
「おしゃれなパスタを……。」
と言うと、
「は?」
と返された。当たり前だ。定食屋でパスタが出てくるはずがない。
「……うどんとかそばなら出せますけど……。」
と言ってくれた。顔は少し冷たい感じがするが、優しい店主さんなのかもしれない。
「じゃあ、うどん、お願いします。」
「はいよ。おしゃれなうどん、お作りいたします。」
ぼうっと水を飲んで待っていると、少し気持ちが良くなってきた。
「はい、どうぞ。」
少し待っていると、土鍋に入ったうどんが出てきた。
鍋焼きうどんだ。
蓋を開けると、ふわっと湯気が立ってきた。
――温かい。
うどんの具も様々で、海老天、かまぼこ、椎茸、がおしゃれに見えなくもない、かもしれない。
ああ。本当なら今頃、先輩とおしゃれなパスタを食べて、そのままお家デートをしているはずだったのにな。
ぼんやりしていると、
「早く食べないと、伸びますよ。」
と釘を刺された。
「は、はい、ごめんなさい。」
私は急いで割り箸を割って、うどんの麺を数本つかみ、ふうふうと息を吹きかけた後、思いっきり、ずずずっとすすった。
じんわり。口の中に、出汁の匂いがいっぱいに広がった。
もちもち。つるん。うどんを噛み締め、飲み込むと、温かいものが喉から胃へと通っていくのを感じた。
「――美味しい。」
気がつくと、口に出してしまっていた。
「ありがとうございます。」
店員さんは、無表情のままお礼を言った。
そのまま、私は無我夢中でうどんを2口、3口と食べていった。具もどんどん口に入れた。温かさが身体にも心にも広がっていった。すると、何だか、大粒の涙がポロポロと出てきた。
――結構、ちゃんと好きだったんだぞ。
泣きながら食べていると、顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまった。店員さんは我関せずという感じで何やら厨房で作業している。
よく考えたら、定食屋の前で声をかけてもらった時も、私の顔はぐちゃぐちゃだったはずだ。しかもお酒やゲロで臭かったはずだ。それなのに素知らぬ顔で店に入れてくれた。やっぱり、本当は優しい人なのだろう。
一口。また一口と食べているうちに、心の中の黒いものが少しずつほどけていく感じがした。
気がつくと、目の前の鍋は空っぽになっていた。
「ご馳走様でした。」
「あいよ。……美味しかったか?」
「はい、すごく!」
「そうか……良かった。」
そうして店員さんは、ふっと笑ってくれた。
「またいつでも来てくださいね。」
普通の一言のはずなのに、なぜか心に沁みてきた。
「はい、ありがとうございます。」
お礼を言って、お金を払って、出てきた。
よく考えたら、私はおしゃれで食べがいのないパスタよりも、太くてこしのあるうどんが好きだった。
ださい定食屋かもしれないが、また来たいな、と思えた。
最初のコメントを投稿しよう!