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【01】ごめん、誰だっけ
三年前の今ごろ、私と蒼汰は病室にいた。
同じ大学に通う恋人同士だった私たちは、帰宅途中にバイクの転倒事故に巻き込まれて病院に運ばれたのだ。私の怪我はかすり傷程度で大したことはなかったが、蒼汰はしばらく目を覚まさなかった。
「ねえ、本当に私のこと忘れちゃったの? 冗談だよね」
私はベッドに横たわる蒼汰を覗き込みながら叫んでいた。
彼の意識が戻ったとほっとしたのもつかの間、様子がかなり変だったのだ。恋人である私のことを覚えていないという。
「えっと」
蒼汰は私の顔をまじまじと見上げながら不思議そうな、それでいて困惑したような表情を浮かべていた。
「……ごめん、誰だっけ。顔は見たことあるような気がするんだけど」
他人行儀に謝られて絶句する。
私たち二人はまだ学生だったが、卒業したら結婚する約束をしていた。すでに同居もしている仲で、蒼汰は私のことをとても大切に思ってくれていたはずだ。そんな彼が私を忘れるなんてありえない。
その時は、彼が事故のショックで一時的に混乱状態に陥っているのかもしれないと考える余裕さえなかった。
「付き合っているんだよ、一年のときから。学部が違うからほとんど接点なかったんだけど、別の場所で仲良くなってね……」
いくら説明しても蒼汰はきょとんとしているだけだった。そのうち私の視線を避けるように、病室をきょろきょろ見まわしたり、頬に張りつけられたガーゼに触れたりして落ち着かなくなった。
「……ねえ、ふざけてるの?」
苛立った私が、彼の手に触れようとすると、
「結愛ちゃん、待って」
背後にいた蒼汰のお兄さんの涼介さんから制された。
「大丈夫か? どこも痛くない?」涼介さんが枕元に近づき顔を見せると、蒼汰はやっと安堵したように息を吐いた。
「ああ、兄貴か。びっくりした。おれ、何でこんなとこに寝かされてるんだっけ?」
私にいつも向けるような親しげな表情に戻ったので、心がざわついた。お兄さんのことはいつも通り思い出せるらしい。
「交通事故に巻き込まれたんだ。頭を打って意識を失ったって聞いたときは焦ったけど、顔を見たら元気そうで安心したよ」と枕元で優しく声をかけている。
「事故? ぜんぜん覚えてないや。そういえば背中がちょっと痛い気がする」
「バイクが派手に転んで、おまえと結愛ちゃんがいた歩道につっこんできたって」
そうだったよね? と涼介さんがこちらを振り返った。
私がうなずくと、蒼汰は不可解そうに片眉を上げていた。まだいたの、とでも言いたげな表情に心がくじけかけたけど、私は帰宅中に起きたことを話して聞かせた。医師や事故の関係者にはもう何度も話した内容だった。
蒼汰は私を助けようとして怪我をしたのだ。
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