【01】ごめん、誰だっけ

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 病室に戻ろうと廊下をとぼとぼ歩いていた私は、小学校の頃の出来事を思い返していた。  忘れられた相手は蒼汰ではない、友達の博美(ひろみ)ちゃんのお母さんだったが、それでも自分が取るに足らない存在みたいに思えてかなりショックだった。  小学校時代の私は、もう一人の家族みたいだね、と茶化されるくらい頻繁に博美ちゃんの家に通っていた。その度に、手作りの焼き菓子を出してくれる優しいお母さんだった。家じゅういつも甘い香りがして、私は博美ちゃんも博美ちゃんのお母さんも家も大好きだった。 「さっきから誰なの? しつこいわね」  ある日の放課後、いつものように気軽に家を訪ねると、博美ちゃんのお母さんから恐ろしい形相で追い返されたことがあった。  次の日、戸惑いながら学校で抗議すると、博美ちゃんの顔がさっと曇った。 「ごめん……。最近ママの調子が悪いみたい。あんなに作るの好きだったマフィンの作り方も覚えてないって言いだして。きょうのお昼もこれ。こわいよね」  何もついていない食パンを二枚、恐々と差し出して見せる。  そういえばここ数日、博美ちゃんはお弁当を持ってきていなかった。シンクに洗いものが溜まっていて、とてもじゃないが料理できる状況じゃないらしい。しばらくして博美ちゃんのお母さんが入院したと聞いた。 「パパが言ってた。人間だから、仕方ないんだよって。誰だって大切なことが思い出せなくなったり、覚えられなくなったりすることぐらいあるからって。昨日からお祖母ちゃんが泊まりに来てる。家族全員でママを見守っていこうって」  妙に物分かりのいい口調で博美ちゃんはつぶやいていたのだ。 「あら、結愛ちゃん? 最近来ないから寂しかったわ。またクッキー食べにいらっしゃいよ」  学校の帰り道でばったり会った博美ちゃんのお母さんは、いつも通りの優しいお母さんに戻っていた。隣では、博美ちゃんのお祖母ちゃんらしき女性が困ったような笑顔を作っていた。  驚いた私は言葉に詰まってしまい、うまく返事ができなかった。  その後のことはあまり覚えていない。博美ちゃんとは中学で離れてしまったし、うちの家族にも色々あって、疎遠になってしまったのだ。 「人間だからね……」と強がって自分を納得させようと何度もうなずいていた博美ちゃんの横顔を私は思い返している。
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