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病室に通っているうちに、蒼汰は自分のことを少しずつだが私に話してくれるようになった。毎日顔を見せに来ているのだ。いいかげん、私と一緒にいる空間に慣れたらしい。
話題は、写真と家族に関することが多かった。
一つ一つ確かめるように話していたから、自分でも記憶の整理をしていたのかもしれない。
あるときはこう言った。
父親はカメラマンで、彼が海外で撮る作品は社会的に意味のあるものばかりだが、自分は何でもない日常の風景や、ポートレートを撮るほうが好きだということ。
特に子供の頃から家の近くにあった東京タワーを撮るのが好きで、それは季節や時間帯や天気によってぜんぜん違う写りかたをするから、何度撮影しても飽きないのだと語ってくれた。
「よく観光客と間違われるんだ」
蒼汰が照れくさそうに歯を見せたので、私も笑った。うなずきながら泣きそうになった。もう何度も彼から聞いたことのある話だったからだ。
「蒼汰が戻ってきた!」
このまま写真の話を続けていたら、私のことも思い出してくれるだろうか……。
しかし、カメラや機材の使い方の細かいことまで覚えているのに、その機材をかついで私と東京じゅうを撮影しにいったことはすっかり忘れているのだった。
私は二人が一緒に住んでいた事実を伝えた。余計なプレッシャーを与えたくないから今まで黙っていたのだ。
「まじ?」蒼汰はぽかんとしていた。
「そうだよ。出会ってすぐに同居をはじめたの」
結婚する約束もしてたんだよ、とつけ加えたかったが、さらに混乱させそうなので飲み込んだ。それでも何か思い出してくれることはないかと、期待を込めて蒼汰の表情を見つめていた。
「そうだっけ」
蒼汰は衝撃を受けており、私の複雑な思いには気づいていないようだった。こちらをじろじろ見つめたかと思うと、急に下を向いてはにかんだりと挙動不審になっている。
「同棲かあ。なんかえろいな」
しばらく逡巡したあと、茶化すようそう言ったのだ。
「……本当に覚えてないんだね!?」
尖った声が口をついて出てしまう。二人はいいかげんな気持ちで一緒に暮らしていたわけじゃないのに。
今の蒼汰を責めてはいけないとわかっていても、「どうしてこのひと覚えてないの? おかしいでしょ」という疑問や怒りが、からだの中をぐるぐると駆け巡っていく。私は黙り込んでしまった。
「……ごめん」
異変に気づいた蒼汰は謝ってくれた。
だが、別に彼は何も悪くないのだった。私の表情が硬いままだったので向こうも口をつぐんでしまった。
やっぱり嘘なの? と蒼汰の目の奥をじっと見つめて真意を探ろうとしても、澄んだ瞳で私を見返してくるだけで、何の意図も読み取れない。同じことを何度も繰り返していたら、とうとう彼の機嫌を損ねてしまった。
「何だよ? 言いたいことあるなら言えば」
「そういう目で見るのやめろよな。睨まれても、思い出せないもんは思い出せないんだからさあ」
投げやりに言うと、スマホを見たまま口をきかなくなってしまったのだ。
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