60人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
「結愛、こっち向いて」
私を呼ぶ声がする。
振り返ると、さっきまで東京タワーを撮影していた恋人の蒼汰が私にカメラを向けて立っているところだった。
空の色がきりかわる夕方。あれは桜が咲き乱れて、花のにおいでむせかえるような暖かな日だった。
「今はだめ」
風で乱れた髪を直しながら笑いかけると、レンズ越しに目が合った気がした。蒼汰はカメラを構えるのをやめ、スカートについたほこりを手でぱんぱん払う私を見て目を細めている。
今度は本当に視線があった。
彼は私の髪についた桜の花びらをゆっくりとつまむとこう言った。
「この瞬間を閉じ込めたくなるときがあるよ。写真にはそれができるって信じてたけど、結愛のことだけは無理みたいだ。なんでだろうな」
めずらしくシリアスな顔つきだった。
「もう何枚も撮影してるのに、いくら撮ってもつかまえられた気がしない。どうやったら、できんのかなあ」
ひとり考え込んでいる蒼汰の顔を私はじっと見上げていた。目があうと、ふいに抱きしめられた。
「おれ、結愛とずっといたい。今日のこの気持ちを絶対に忘れたくないよ」
懇願するようにつぶやく。
「大丈夫だよ」
私は蒼汰の頬を両手で優しくはさむ。彼はその手をぎゅっと握り返した。三年前、蒼汰は事故に遭って私の記憶をなくしてしまったことがあったのだ。
「これさえあればいいの」
私たちは一緒に生きていく。目をつむってお互いの温かさを手のひらで感じながら、改めてそんなことを思った。
最初のコメントを投稿しよう!