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「僕に御用ですかね?」
友人からではなくて、横に居たふきんでテーブルを拭ていた人から声が掛かる。彼女が見てみると、自分たちより少し若い雰囲気を持った男の子だ。
一瞬「誰?」と聞きそうになったが、それはさっきの彼の言葉で想像はつく。しかし、それよりも友人と親し気に手を振りあってるのが気になる。
眉を寄せて訝し気な表情で「この人誰?」と思ったことを聞いてしまった。ボキャブラリーの欠如だ。
「この人が噂の料理人さんだよ。私の旦那の高校の同級生なんだって」
軽く話されそれからも友人は彼の紹介を続けにこやかな顔を送っていた。
だとしても、別に彼女は本当にはシェフに賞賛の言葉を送るつもりがないので、紹介されても困ってしまう。
なのに、その彼は彼女のことをじーっと眺めて目を離さない。まるでどこぞの希少な動物でも見つけたかのような瞳。
「どうしたの? あたしの顔になんかついてる?」
「もしかして美人だから見惚れちゃったとかー?」
彼の視線は真っ直ぐなので彼女だけでなく、友人も楽しい返事を返してる。あくまで冗談のつもりだろうと彼女もこのくらいの友人の言葉には気にしない。
「惚れました。付き合ってる人は居ますか?」
それはもう十数分前のことになる。彼女は彼の言葉を聞いて、黙って社食を離れてしまった。そして再びラウンジスペースの自販機でコーヒーのボタンを押す。
「なんで貴方が怒ってんの? 人に好かれるのがそんなに気分悪いことなの? 今の君には恋も必要だよ。退屈なんて消え去るから」
コーヒーを買っている表情がかなり怖い。友人からではなくても彼女が怒っているのは一目瞭然だ。ただ、彼女以外には。
彼女は別に腹を立て逃げ出した訳じゃない。その場に居られなくなったんだ。だけどこれは恋心ではないと思っていた。
「急に言われたから驚いたの。あんなのいつ振りだろうか」
「悪くないんじゃない? 彼、見た目も悪くないし、真面目な子だよー。実家の食堂を継ぎたいんだって」
友人は話し好き。こんな風になると時間を忘れてお喋りを続けてしまう。昼休みの終わりも気付かないくらいに。
「それはまた聞くよ。ホラ。もうお仕事の時間だよ」
彼女は友人の背中を押して、職場に戻らせる。友人がその時膨れてつまらなそうにしていたのは言うまでもない。
今日の仕事は彼女にとってちょっと楽しい気がしていた。その理由はわからないが、昔を思い出せたみたいで微笑んでしまう。そうしたら就業時間なんて直ぐに過ぎてしまった。
「さて、お仕事は終わりました! では帰りましょう!」
定時を過ぎたときに現れたのはかの友人。ニコニコの表情でまだ仕事を続けるつもりだった彼女を迎えに訪れた。
普段から残業をしない日なんてない彼女は「まだ仕事が残ってる」と言うが「明日でも良いでしょ」と簡単に言われる。もちろん彼女は言い返すが、今はそんなに急いだ案件がないのは本当だった。すると「今日は帰りなよ」彼女に唯一指示できる上司の言葉だ。
普段から仕事熱心な彼女のプライベートを心配したその人は命令として彼女に今日は帰らせるように諭して、彼女と友人は有名チェーンの居酒屋に居た。
「そんでさー、あの子の実家は流行ってる食堂で、これまでは有名な洋食店で修業してたんだって、だけど食堂を継ぐならもっと幅の広いメニューのあるところで、ってうちの社食で改めて修業するんだって」
お酒を注文して到着する前に友人はもうお喋りに花を咲かせる。
「腕も良いのに、正規雇用だからフルタイム勤務でそれなのに社食は昼営業だけでしょ? だから片付けとか翌日の準備なんてのは彼が全部になってるんだって。こんなんならディナー営業もしてくれたら良いのにね」
迅速に運ばれたビールも友人の語るスピードには全く勝てない。
「それは難しいでしょ。夜も営業するとなると、そのためのパートさんも増やさないとダメ。それに彼の仕事量は逆に増えるよ」
「そう言う現実的な考えは直ぐに浮かぶんだね。恋のほうはどうなんだいって、飲むピッチ気を付けてね」
お話のスピードに勝てるものは彼女のビールを飲む速度だ。彼女は届けられたビールを友人と乾杯すると、話の合間に飲み干して、次のジョッキを注文している。
「このくらい普段通りだよ。別にあたしは恋なんかしたくないね。今日は仕事が楽しかった。今はそれだけで十分」
これは本当にそうなんだ。彼女はまだ今日くらい仕事が楽しければそれで良い。
だけど、その時に友人は軽い酎ハイをもって「それはどうして楽しかったのかな?」なんて話すので彼女は考え始めた。
この日の酒は深くなった。若干彼女の記憶は消えている。ただ、仕事が楽しかった理由はまだわからない。
それからも彼女は社食でお昼を食べることになる。もちろん毎日友人に連れられているのも理由にはなるのだが、もう一つのメリットとしては食事が美味しい。
それまでは一日をクッキー的な栄養補助食品で補うことなんてしょっちゅうだったのに、毎日お昼が楽しみになっている。
この日も本日のランチのビーフシチューにお腹を鳴らして席を探す。社食は彼のおかげなのか評判を呼んでいて、賑わっている。
やっと席を見つけてお昼ご飯を始めると、今日も安定的かつとっても美味なゴロリとホクホクでフンワリな料理に彼女はどんどんと食事を進める。
こうして昼食を摂っていると「こんにちわ」と彼が彼女たちの姿を見つけては姿を現す。
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