第四章

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本日2回目の先輩の部屋。 ソファーに俺を座らせ自分も隣に腰を下ろした先輩は、誰が見ても分かるほどにそわそわしている。 だが俺はというと、その百倍はそわそわしていた。 確かに遅かれ早かれこの状況を迎える予定はあった。だがそれは今ではない。 今夜自分の部屋に帰ったら電話で他愛ない話でもして、それから明日この部屋に来た時にでも改めて切り出すはずだったのだ。だから、それは決して今ではない。 大体俺は予期せぬ事態に弱いのだ。だから先輩との会話に備えて、今夜は入念に心の準備をするつもりだった。そうでなければ慌てて変なことを口走らないとも限らないし、というか変なことを口走ることに関しては既に前科がある。なんなら台本まで書こうかとまで思っていたんだが。 だから、 「なあ、俺のこと好きって本当?」 居住まいを正した先輩に真剣な顔でそう尋ねられた時、俺の頭は既に真っ白になっていた。 「……あの」 「うん」 「あの……」 「うん?」 緊張した様子で俺の言葉を待っている先輩と目が合う。 その瞬間、思わず立ち上がった。 「すいません俺また明日出直してきます」 「えっ? 何で?」 「なんというかちょっと練習、いや台本書いてくるので」 「え、何の?」 「だって、突然すぎて心の準備が……というか何を喋ればいいのか」 引き止めるように掴まれた手首が既に熱くて、駄目だこれは、と改めて思う。自分の不甲斐なさを再確認しながら俯けば、ソファーに座ったまま俺を見上げていた先輩の視線に再度捕らえられた。 「分かった、じゃあイエスかノーで答えてくれたらいいよ」 「何を……?」 「俺のこと好き?」 「……」 先輩のことが好きかどうか。今まで散々考えたその問題の答は、もう既に俺の中にある。イエスかノーかで言うならば、答えはもちろんイエスだ。それも、きっとちゃんと恋愛的な意味で。 だが、答えようとした俺の口は縛られたかのように動かなくなってしまった。 だってしぬほど恥ずかしい。好き、なんて文字にすればたった2文字、しかも考えようによっちゃ「す」と「き」という音の連続にすぎないはずなのに。 「……」 まず「す」と言って次に「き」と言う。たったそれだけのはずなのに、どうしてそれだけのことができないんだろうか。 黙ったまま固まった俺を見て先輩は、少し困ったように苦笑した。 「じゃあ答えなくてもいいよ。頷くか首振るかしてくれれば」 「……」 頷けばいい。首をちょっと縦に振るだけ。それだけなのに。 それだけなのに、どうしてもできない。 「……」 「……」 「……」 「……ごめん、悪かった」 ぎしりと固まったまま動けなかった俺を見つめていた先輩は、しばらくすると小さく息を吐いて沈黙を破った。俺の腕を掴んでいた手からも力が抜け、するりと下ろされる。 「そんなに困らせるつもりじゃなかった。もう言わないから」 「え……」 「大谷が嫌なら好きとかもう言わないから。ずっとこのまま、友達のままでいい」 それで十分だから、と先輩は笑った。 悲しそうな声で、かつ寂しそうな顔で。 途端に胸の奥が苦しくなった。そんな顔をさせたいわけではなかったし、そんなことを言わせたいわけでもなかったのに。 そう思った時、これじゃ同じことの繰り返しだ、とふと気がついた。 先輩がしばらくあのベンチに来てくれなくなって、それから久しぶりに慎二さんの部屋で再会した日。あの日も俺は同じようなことを考えたのだ。 あの時は一体どうしたんだっけ、確か、そう確かあの時は勢いで馬鹿なことを言って、あれは確かに後悔したけれど結果的にはうまいこと進んだはずだ。 だとすればきっと、大切なのは勢いなのだ。多分。少なくとも恥ずかしいだのなんだのと言っている場合では絶対にない。 とそんなことをぐるぐる考えて、気づいたら俺の手は、ちょっと茶でも淹れてくると立ち上がった先輩の腕を掴んでいた。 「違う……」 「……うん、もういいよ。今までごめんな」 「違うんです!」 俺の突然の大声に、先輩が驚いたように目を丸くした。正直自分でも驚いた。けれどその反面必死だった。 今言わなければきっと、もう何もかも遅くなってしまう。そう思った瞬間、あんなにも言えなかった言葉がするりと口から飛び出た。 「好きです」 「……え?」 「好きなんです。先輩のことが、ちゃんと恋愛的な意味で」 「……」 「だから、あの、俺と、つ、付き合ってください」 言えた。最後の最後でどもったが、なんとか言えた。 達成感で脱力しそうになるが、見上げれば先輩は俺に手を掴まれ突っ立ったまま何も反応してくれない。 「先輩……?」 「……」 もしかしてもう既に遅かったのだろうか。 さっき俺が何も言えなかったことで、先輩は俺に呆れてしまったのだろうか。 いや、呆れられただけならまだいい。もしもう俺に嫌気がさしてしまったのだとしたら。 「あの、すいません俺、こんな……」 やばいと思った時には鼻の奥がつんと熱くなっていた。だが滲んでしまった目元を拭う余裕はなかった。必死で言葉を探すのに精一杯だったから。 「俺、こんなだけど……自分の気持ちに気づくのも遅くて先輩のことたくさん待たせるし、緊張して大事なこともちゃんと言えないし、それで先輩のこと悲しませちゃうし、……でも好きなんです。本当に好きなんです。だから、もう遅いかもしれないけど……」 「……宏樹」 「せめて嫌いになんないでください……」 なんとか搾り出した声が、静まり返った部屋にぽつんと落ちた。 その途端、先輩がすとんとソファーにもう一度座り直した。というよりもむしろ、力が抜けたかのようにずるずると座りこんだ。 「あー……」 片手で顔を覆って小さくうめいた先輩は、それから横目で窺うように俺を見た。 「……もう1回言って」 「え、……嫌いになんないでください?」 「それじゃなくて、俺のこと好き?」 「好きです……」 震えそうな声でそう言った瞬間、先輩は大きく息を吸い込んだ。それからため息のように、あるいは深呼吸のように息を吐き、そして掠れた声で言った。 「俺も好き」 と。 その時の俺の気持ちは、言葉ではなんとも表現しづらい。心臓が激しく動きすぎているような気がしたけれど、それがもう駄目かもしれないという不安のなごりだったのかそれとも先輩の言葉への安堵感からだったのかも分からない。けれど、とんでもなく嬉しかったのだけは確かだった。 少し前に慎二さんの部屋で同じことを言われた時とは全く違う。あの時は突然のことだったし、先輩が俺のことをこういう意味で好いてくれているだなんて考えたこともなかったし、驚きや困惑や信じられないという気持ちが勝っていた。 だから今、自分も先輩のことを好きなんだと自覚した状態で聞くと、何だろう、胸の奥の方がむずむずするというかじっとしていられないというか、むしろ叫びだしたくなるような、いやつまり結局のところは嬉しいわけなんだが、やっぱりうまいこと説明はできない。 ともかくそんな気持ちで、しかしなんと言っていいか分からずに黙っていると、先輩の手を掴んだままだった俺の手がそっと外された。けれどすぐに、指を絡めるように握り直される。そしてそのまま、繋がれた手をそっと引かれた。 あ、と思った時には既に、先輩の額が俺の肩にこつんと触れていた。 肩に押し当てられたかたい感触と首筋にふれる髪のやわらかな感触。思わず固まると、先輩は額を俺の肩に乗せたまま、 「こんなに嬉しいと思わなかった」 ぽつりと呟いた。 「嫌いになんかななるわけないし……ごめん、なんか俺もういっぱいいっぱいで何て言っていいか分かんないけど……でもこんなに嬉しいの生まれて初めてかもしれない……」 「……先輩」 「ごめん……もう1回だけ言って」 「す、好きです」 「あー本当に……あーもう……」 繋がれた手にぎゅっと力がこめられる。同じように握り返すと、先輩はゆっくり顔を上げた。俯き加減の目が、微妙に赤くなっている。その目元に繋いでいない方の手を伸ばすと、視線を上げた先輩は少し恥ずかしそうに微笑んだ。 「あーどうしよう、こんなに幸せでいいのかな」 それは俺も、というかむしろ俺の台詞なんですけど、とはさすがに言えなかった。どうやら俺の勢いはもう尽きてしまったようだ。 代わりに自分の行動への恥ずかしさがこみあげてきて、そっと視線を逸らす。 と、そんな俺の心情に気づいたのか先輩は小さく笑い、片手を俺の背中に回してきた。さらに引き寄せられて、今度は俺の額が先輩の胸のあたりにぶつかる。 さっきよりも縮まった距離に俺の心臓が緊張と痛みを訴えるが、それさえもお見通しだったのか先輩はあやすようにぽんぽんと背中を優しくたたいてくれた。ゆっくりした一定のリズムに、少しずつ緊張がほどけていく。ふ、と力を抜いて頬を先輩の胸に押し当てると、先輩は俺の髪を撫で、そしてしみじみと言った。 「俺のこと好きになってくれてありがとう……」 「あー……いや、こちらこそ。というか」 「ん?」 「……俺、嫉妬深いみたいなんですけど平気ですか」 「ああ、うん全然平気。むしろ嬉しい」 「え?」 「いや、もちろんあんまり嫌な思いさせないように気をつけるけど。でもそれだけ俺のこと好きでいてくれてるってことだろ」 「……はい」 こっそり視線を上げると、少し赤い目を細めた先輩は、泣き笑いのようにゆるゆると口元を緩めた。 それを見た時、改めて思った。 ああ、やっぱり好きだなあ、と。 先輩のことが好きだ。 俺も先輩も男だし、色々悩んでいたことも結局何も解決していないけれど、やっぱり先輩のことが好きだ。 こみ上げてきた何かを消化しきれずに、好きです、ともう一度呟く。 その途端、俺の髪をすくように撫でていた先輩の手がぴたりと止まり、そのままもう一度抱きしめられた。かすかに震えた声で、「大事にするから」と先輩が呟く。それから俺の首筋にぽたりと一粒水滴が落ちてきた。 じわりと体が熱くなってようやく先輩と想いが通じあった幸せを実感して、 今度こそ「俺も」と返したかったけれど、黙ったまま小さく頷くだけで精一杯だった。
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