知らなくていい

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知らなくていい

YUKIがあるはずのお花屋さんの看板の前で、ぼんやり立っていたわたしに、後ろからYUKIちゃんが声をかけてくれた。 「大丈夫? 顔色悪いわよ?」 「まだお店開く時間じゃないのに」 「お店開く前に準備があるもの。早めに来るに決まってるじゃない」 「そう、ですよね」 「暇そうね。ちょっと手伝ってよ」 「あ……はい」 「言っとくけどバイト代出さないわよ。その代わりお酒飲ませてあげるから」 勝手に花屋の看板を寄せると、ユキちゃんは店の鍵を開けて中に入って行った。それでわたしも中に入った。 「なんだかあなたって、いっつも悩んでない? 思い詰めちゃうタイプ? 暗ーいっ」 「そんなことはないです」 話しながら、エプロンを貸してくれた。 「そう言えば、前に来た時、あなたの『彼氏』になった人、あれからどうなったの?」 「かっちゃん? メッセージのやり取りをしてます。彼氏じゃなくて友達として」 「あら、そう。会ったりしてるの?」 「いいえ。かっちゃんとは一回も会ったことはないです」 「知り合いじゃなかったの?」 ユキちゃんの言葉に驚いた。 「えっ?」 「違うの?」 「知り合いじゃないです」 メッセージのやり取りの中で、そんな素振りは一度もされたことがない。 かっちゃんは、わたしの本当の名前すら知らない。 「でも彼、あなたのこと知ってる感じだったわよ?」 「ユキちゃん、それきっと誰かと間違えてる」 「ワタシ、記憶力はいいの。誰が何回来てくれたとか、何を話したとか、ちゃんと覚えてるの。だから確かよ」 「かっちゃんって、なんて名前か知ってますか?」 「さぁ……名前はねぇ、名乗られない限りは聞かないことにしてるから」 「そうですか」 「ただぁ、『かっちゃん』はあだ名みたいだったわね」 『かっちゃん』ってことは、カズキとか、カズヤ、カズヒコ……でも苗字ってこともある。カシムラだったり、カクタ、カブラギ……考えたらキリがない。 でも、少なくとも、わたしの知り合いの中に、「か」のつく苗字や名前の人は誰もいない。 「気になるんだったら、人に頼らずあなたが直接聞かないとね」 ユキちゃんは持っていたビニール袋からイワシを取り出した。 「ねぇ、イワシの梅煮作ったことある?」 「何回か」 「じゃあ手伝って」 「はい」 『イワシは、梅煮がいい』 水族館に行った時、上椙さんが言っていた。 作ってあげたかったな。 お客さんが次々と入ってきたので、前みたいに話したりすることもなく、自分で作ったイワシの梅煮をアテに、お酒を飲ませてもらった。 <今日は星がたくさん見えます> YUKIからの帰り道、かっちゃんからメッセージが届いた。 <部屋の中でずっと映画を観ていましたが さっきベランダに出たら星がきれいだったから お伝えしたくて> 空を見上げる余裕なんかなかった。 だから空を見上げて、たくさんの星を見て、それをまだきれいだと思える自分に安心した。 わたしは、ひとりでも大丈夫。 <映画は何を観ていたんですか?> <SF 絶対に現実にはありえないストーリーには救われます> <わかります 物語の中では 悪人は悪人で善人は善人だから> <くだらない話をしましょうか 意味なんて何もない話 美味しいものの話もいいですね 何でもいいから 僕はあなたの北極星でいたいんです> 「必ず僕に連絡すること」と言われたのに連絡しなかった。 それなのに何も聞かないでいてくれる。 かっちゃんが誰かなんて知らなくていい。 知らない相手だから、わたしは少しだけ泣き言めいたことを言える。
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