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大切なもの
トラブルは、帰る間際に起こってしまう。
就業時間が終わり、香奈に会うために重い気持ちのまま席を立とうとした、ちょうどその時、電話がかかってきた。
いつもなら何の躊躇もなく電話をとる。
でも、少しだけ迷った。
電話に出てしまったら、内容によっては帰れなくなってしまう。
それでもやっぱり電話に出た。
そんなに大変なことではなかったから、すぐに対応は終わったけれど、時計を見ると、もうすぐ6時だった。
急がないと……
タクシーに乗ってJRの駅まで行って、走って改札を抜け、山陽本線の新幹線乗り場まで、階段を駆け上がった。
ホームに着いた時は6時45分になっていた。
香奈を探して、また走った。
「香奈!」
「佑香、走って来たの?」
「仕事が、少し遅くなって……」
「変わらないね。そういう真面目なとこ」
香奈はカバンから封筒を取り出した。
「これ、お姉ちゃんから」
「香奈、教えて。お姉さんの子供、傷跡が残るような怪我をしたんだよね?」
「風太のこと? そんな傷ないと思うけど?」
「でも、お姉さんが怪我したって――」
「佑香、ごめんね、あの時ひどいこと言って」
涙で目が曇る。
どうして香奈が謝るの?
「香奈が謝ることなんて何もない。悪いのはわたし。わたしのせいでお姉さんにも、香奈にも嫌な思いさせたんだから。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「佑香は悪くない。あいつが全部悪かったんだって、わかったから。佑香はただ、人を好きになっただけ。だからもう忘れてしまって」
「忘れない。わたしが傷つけてしまったことを忘れたりなんかしない」
「わたしね、佑香のこと探してた。でも、興信所とか使って、すぐに見つかったりしたら……怖かったから。だから、自分で探して、もし見つかったら謝ろうって。見つからなかったら、放っておこう、なんて考えてた。そんなの間違ってたね。もっと早く、もういいんだよ、って言わなくちゃいけなかった」
「香奈?」
「佑香、ずっと苦しんでたよね。昔からそうだった。他人を傷つけてしまったらそのことをずっと悩むような子。わたし佑香のこと誰よりも知ってたはずなのに……知らなかったんでしょ?」
我慢していた涙が頬を伝う。
「……言い訳にしかならない。事実は変わらない。でも、本当に、結婚してるなんて、知らなかった。信じて」
「信じるよ」
ホームに新幹線の出発を知らせるアナウンスが流れる。
「ばいばい。もう全部過去のことにしてしまって。佑香、ごめんね」
「香奈、探してくれて……ありがとう」
新幹線のドアが閉まっても、香奈は手をずっと振っていた。
だから、わたしも新幹線の最後の一両が見えなくなるまで、手を振り続けた。
家に帰ってから、香奈から受け取った、お姉さんからの手紙を読んだ。
読み終わった後、泣き続けた。
ずっとずっと、泣き続けた。
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佑香ちゃんへ
手紙を書くのはどのくらいぶりになるのかわからなくて、順を追ってうまく書けそうにないことを、最初に謝っておきます。
あの日、偶然会った時、ひどい言葉を投げつけてしまってごめんなさい。
あなただけが悪いわけじゃないってわかっていたのに、怒りをぶつけてしまいました。
あなたが本当の意味でこの街からいなくなった後、夫婦仲は元通りともいかないまでも、修復しました。できたと思っていました。
でも、彼はまた浮気をしました。
今度は取引先の会社の女性でした。
その女性は、彼が結婚して子供までいることを知らずに関係を持ち、騙されたと言って、家に押しかけて来ました。修羅場でした。
それで、もしかしたら、佑香ちゃんとの時も、同じだったのではないかと思うようになりました。
その後、彼とは離婚しました。
離婚調停中に、慰謝料の減額を条件に弁護士の人に聞いてもらいました。
彼は自分が結婚していたことを佑香ちゃんには隠していたと言いました。妻帯者であることがわかったら、真面目な佑香ちゃんは絶対に自分と2人で会ったりしないとわかっていたからと。
佑香ちゃん、息子は、怪我なんてしていません。傷なんて残っていません。
あの時、あなたを傷つけたくて嘘をつきました。わたしが夜勤の日は、息子は実家の母のところに行っていたので、1人でいたことはありません。大切な子供を1人になんかしません。
嘘をついてごめんなさい。
今、あなたが幸せであることを心から祈っています。
わたしのせいで、大切なものを見失わないで。
阿久津恵奈
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