昔日はあおに沈む

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 額に流れる汗を手の甲で拭うと、アデルは短く息をついた。  仲間の漁師たちから労いの声がかけられる。帰路へと着く彼らを見送れば、この日もつつがなく終了した。  漁師としてここで働くようになって七年。最初は戸惑うことばかりだったが、彼らが根気よく教え、支えてくれたおかげで、ようやくひとり分の仕事をこなせるまでに熟達した。  すべてを彼らから学んだ。風の読み方や星図の見方、この場所で生きていく知恵を、すべて。  再度息をつき、ゆっくりと歩き出す。  緩やかに曲線を描いた白い砂浜。波打ち際には色とりどりの貝殻や珊瑚が散らばり、眼前の海は深い紺から鮮やかな水色まで、さまざまな〝あお〟が光を反射して躍っている。  幸か不幸か。  あの事故で奇跡的に生き残ったアデルは、この小さな漁村で暮らすことになった。  七年前の夏の夜。ここから少し北に位置する海域で、大型客船が座礁し、沈没する事故があった。原因は、嵐による視界不良。乗員乗客は為す術なく船外へと投げ出され、荒れくるう海に呑み込まれた。  死を覚悟した。冷たくなってしまったこの手を絶対に離さない——そう誓って。  開かないはずの瞼が開くと、心配そうに自分を見つめる少女と目が合った。 「それで隠れてるつもりか、メア」 「!」  岩場の隙間。海面に揺らぐ影に向かって話しかければ、ぱしゃんと水飛沫が舞った。 「こら、逃げるな。……おいで」  もう一度、優しく声をかける。すると、水の中から、おずおずと少女が顔を覗かせた。  雪を欺く白い肌。まるで翡翠と見まがうほどの美しい瞳。波に漂うあおい髪は、まさに海そのものだ。  さらに驚くべきは、その下半身。 「俺はそこまで行けないから、こっちに来てくれ。陸には上がらなくていいから」 「……もう、怒ってない?」 「ああ、怒ってない」  アデルのこのひとことで、メアはとたんに相好を崩した。ぱっと大輪の花が咲く。勢いよくざぷんと潜れば、色硝子を敷き詰めたかのごとき鱗と、オーロラさながらに翻る尾鰭が、ひとときだけ陽光のもとに晒された。  この近くの深海には、〝人魚村〟と呼ばれる、その名のとおり人魚の棲まう(さと)がある。太古の昔から続く(えにし)。漁村の人間と人魚村の人魚は、この場所でひっそりと共生してきた。互いに知恵を分け合い、ともに文化を築きながら。  ゆえに、この村で人魚を見ることは、けっして特別なことではないのだ。 「この前はごめんなさい。危ないって、何度も言われてたのに」  アデルのもとまでやってきたメアが、先日やらかした自身の軽率な行動について謝罪する。  三日前、海上で漁をしているアデルたちの船に、メアが近づいてきた。網を使用しているときは絶対に近づくなと、再三忠告されていたのに。  結果、魚たちと一緒に水揚げされてしまったのは、想像に難くないだろう。  このとき、メアと漁師たちは、初めてアデルの怒鳴り声を聞いた。 「反省してるならいい。お前に怪我がなくてよかった」  金色の前髪から覗く、青く柔和な眼差しに、メアの心臓がきゅっとなった。  ほかの村人たちとは異なる、色素の薄い相貌。この七年で日に焼けたとはいえ、それでも〝小麦色の肌〟とはとうてい呼べない。  はるか遠い北の大陸。アデルは、その大部分を統べる大国の貴族軍人だった。 「アデルに、どうしても伝えたいことがあって」 「伝えたいこと?」 「……うん。でも、その前に、訊きたいことがあるの」  天真爛漫な彼女の、真剣な表情。悲痛ささえ滲むそれは、アデルの胸奥を鋭く引っ掻いた。  メアは、その大きな双眸を潤ませながら、震える声でこう問いかけた。 「今でも、まだ……死にたいって、思ってる?」  ——新婚だった。  愛する妻との、最初で最後の旅行。船旅がしたいとの、妻のたっての希望だった。  今なお鮮明に覚えている。沈みゆく船で、「貴方と結婚できて幸せだった」と笑った妻の顔を。冷たくなった妻の手の感触を。  荒波に翻弄されるアデルを見つけ、大人たちを呼び集めたのが、まだ十歳の幼いメアだった。 「思ってない」 「ほんと? ほんとにほんと?」 「ああ。思ってたら、とっくに海に飛び込んでる」  どうして自分だけ生き残った。どうして助けた。どうして死なせてくれなかった。どうして——。  目覚めた直後は本気でそう思っていたし、感情に任せて幼いメアに激しい言葉をぶつけたりした。  弁解の余地などない。当時の自分は、最低だった。  でも。  今は。 「俺はここで生きていくよ。みんなと……お前と、一緒に」  メアの翡翠を真っ直ぐに見据え、はっきりとした口調でアデルが告げる。この言葉に、嘘や偽りは微塵もない。  真摯でありたい。この子にだけは。  これを聞いたメアは、気持ちを刷新するようにふるふるとかぶりを振った。ぐっと涙をこらえ、こしこしと両の目を擦る。そうして、ひと呼吸置くと、アデルの武骨な手——結婚指輪を嵌めたままの左手——に自身の手を添え、静かに話し始めた。 「見つけたの」 「見つけたって……まさか……っ!!」  見つけた——そのひとことで、アデルはメアの言わんとしていることを悟った。  メアが見つけたのは、沈没船。あの夜、アデルが妻と乗っていた、大型客船だ。 「どこで……っ」 「場所は、ここからそんなに遠くない。けど、すごくすごく深いところだから、人間が行くのは、無理だと思う」  メアは知っていた。漁をする傍ら、アデルが沈んだ船の痕跡を探していることを。  メアは怯えていた。船を見つければ、アデルがいなくなってしまうのではないかと。愛する妻のもとへ、旅立ってしまうのではないかと。  本当は、もっと前に見つけていたのだ。三日前よりも、もっとずっと前。このまま黙っていようかとも考えたけれど、それはできなかった。アデルに、嫌われたくない。  肩を落とし、うつむく。そんなメアの小さな手を、アデルはぎゅっと握りしめた。 「ここからの方角を、教えてくれ」  まるで凪いだ海のように、穏やかな顔つき。  アデルは、左手の薬指から指輪を引き抜き、そっと何かを呟くと、メアが指し示した方角へ思いきり放り投げた。 「アデルっ!!」  とっさに指輪を追いかけようとしたメアの腕を、制するようにアデルが掴む。  はらはらと。  ぽろぽろと。  メアの瞳からとめどなく零れ落ちる、大粒の真珠。  彼の愛は、この大海の(つぶて)となった。  <了>
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