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とはいえ、ここは後宮の一角。男がいることが異常事態。
「ここは皇族以外の男子は禁制のはずです」
「……書物庫から私の寝所までの近道なのです。どうかご内密に」
拱手をして軽く頭を下げる男に戸惑いを感じる。この国で男性が女性へと頭を下げることはない。確かにこの裏庭を通れば、文官が務める建物は近い。後宮を囲っている高い壁をどう越えるのか気になった。
「壁を乗り越えるのですか?」
「誰も知らない秘密の扉があるのですよ。私しか通れませんので、安心して下さい」
それは初めて聞く話。安心しろと言われても、男が自由に通行できると知って安心できる訳がない。
「夜中に書物庫で何をなさっているのです?」
「試験勉強ですよ。もうすぐ年に一度の昇格試験ですからね」
そう言われればそうかと思い出した。初夏に行われる試験は文官たちの昇進に重要な意味を持つ。優秀な成績を上げれば、例え平民でも高い官位につくことができる。
「それでは。失礼致します」
男とすれ違った時、くっきりとした墨の匂いと爽やかな竹の香りが掠めた。直前まで墨を使っていたのだろう。竹の香りが故郷の山に広がる竹林を思い出させる。香りによって一瞬で引き出された懐かしい記憶を、三つ目の香りが打ち消した。
ごくわずかに香るのは薄荷に似た香りを持つ〝清麗の雫〟。香魔一族の秘伝中の秘伝、皇帝陛下と正妃のみが口にすることができる薬。三百二十二種類の材料で作られ、良い効果も悪い効果も消し去る完全完璧な解毒薬。
恐らくは衣の下に薬瓶を持っていると気付いても、何故その薬を持っているのか聞くことはためらわれた。下手に指摘すれば私の身が危険に晒されるのは明白。
引き留める言葉を探して立ち尽くす私を振り返り、男が口を開いた。
「貴女も早く戻った方が良いですよ。明日も早いのでしょう?」
「……私の名はカリン。貴方の名を教えて頂けませんか?」
「おや。それは私に興味を持ったということでしょうか?」
「……竹の香りが気になっただけです」
「ああ、これは竹の香りだったのですね。名前も知らずに店で買った香油と石けんを使っていました」
自分の匂いを確かめるように袖を嗅ぎつつ男が教えてくれた店は、帝都で一番人気の香油屋だった。廉価品を豊富に揃え、一部高級品も扱う店には私も訪れたことがある。
「私の名は流闇です。他には何か?」
「いいえ。それだけです。お教え下さりありがとうございます」
後宮に六年務めているのに、初めて聞く名前で驚いた。これ程の美形が侍女の間で噂にならない訳がない。
「それでは。おやすみなさい、カリン」
「……おやすみなさい」
同じように返すことが礼儀かと思っても、いくらなんでも初対面の男の名前を呼ぶことはできなかった。かろうじて返した挨拶に、ルーアンは優しく微笑んで歩き去った。
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