春風と鬼怒川と桜吹雪と

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 春風と鬼怒川と桜吹雪と。 2004年4月、私はあなたと付き合って初めての春。鬼怒川の手前の東側にあるU大前の桜並木。 「便利な上に贅沢な所に住んでる」 あなたは満開の桜を眩しそうに眺めた。 「そんなに?賃貸で便利な所を探しただけなんだけど」 「歩いてこの景色が見られるなら俺も住みたいな」 「もう一つの二階の角部屋がずっと空いてるけど、引っ越してくる?」 冗談混じりでからかう私に、あなたは真剣な顔で聞いてきた。 「家賃高いべ?」 マジになると方言が出る癖がかわいい、年上の癖に。 「駐車場混みで4万5千円だからそんなに高くないよ」 「まさか事故物件?」 「違う、この辺に住んで長い松井さんに聞いたから」 「…男?あんだっつーだ、その野郎は」 「何勘違いしてるの?職場の先輩だよ」 「最初から職場の先輩って言えよ、人騒がせな」 「妬いてくれるかなって期待したら期待通り、やった」 「大人をからかわない!安いから引っ越ししするか、職場まで遠くなるけど」 「寝坊しないように毎朝起こしてあげる」  そんな話を二人でしながら、薄紅色の桜が舞い散る通りを歩いていた。  ショッピングモールに続く南北に伸びる通り沿いに植えられた桜の街路樹。立ち並ぶ屋台。ショッピングモール近くにあるU大の敷地は、暗黙の了解で地域住民のお花見の会場として提供される。  サンドイッチに唐揚げ、ポテトのお弁当をU大の芝生の上にレジャーシートを広げて二人で食べる。こんな幸せな日がずっと続けばいいのに。お花見が終わると、U大から東に離れたパチンコ店に停めさせて貰った車まで歩いた。あなたの運転で鬼怒川の川原まで降りる。鬼怒橋を通り過ぎ、道場宿を過ぎて宝積寺の少し手前。釣りやバーベキューの人がいる開けた道から、少し奥に入ると下草が生い茂り、夜はお化けが出そうな小道になる。 車を停めてキスをしておると、あなたの携帯が電話着信を告げる。長く鳴り響き、一度切れ、また長く鳴り続ける。 「職場かも、システムトラブったかな?」 あなたのわざとらしく言い訳がましい口調は、職場ではないなと私も気づいた。7歳上の30歳、出会ったときの「彼女とつい最近別れた」のは、たぶん本当だけど半分嘘だと思う。切れてないな、なんとなくそう勘づくのはこれで何度目だっけ?  夏休みに沖縄に旅行に行ったときも職場からの緊急連絡だと言って、深夜二時にホテルの部屋を抜け出して軽く一時間は帰って来なかった。クリスマス・イブも、私が教えてあげるからと、気後れしてるあなたを連れて行ったガーラ湯沢。スキー場と目と鼻の先のホテルから、電話で呼び出されて30分もどこかに消えた。ボーゲンがやっとの初心者のあなたを騙して、明日は上級者コースに置き去りにしてやろうかと本気で怒りが沸いた。でも、あなたの猫みたいな気まぐれで優しい笑顔を見ると、問い詰めたり上級者コースに置き去りに出来なかった。  あなたが助手席を離れて、もう20分。バレンタインデーの苦い記憶が蘇る。職場からと言って出たのに、携帯電話から女性の泣き声が聞こえていた。もう、問い詰めるしかない。そう思ったときに、ギネス級の捻った嘘をつくあなた。 「事務の子しかいないのに、バグって止まったレジと伝票の機械を直しに来いって。個人経営のレストランのオーナーがカンカンなんだ」 そう言って、バレンタインデーは半日で切り上げてあなたは帰ってしまった。ホワイトデーには3倍返しよりもずっと高いGUCCIのシルバーのブレスレット。本気なのはもしかして私かなと、上手く誤魔化されたけどね。  鬼怒川の川原から私のアパートまで歩いても一時間で帰れる。財布も車の中だから歩くしかない。あなたの車の運転席に移動して、私は差しっぱなしのキーを使ってエンジンを掛けて走り出す。私の携帯は静かだ。私があなたの車ごと走り去っても気がつかない。警察に捕まらない程度に飛ばして、アパートの駐車場の近くの空き地に停める。この周辺は区画整理があるので、来客用の駐車スペースには困らない。  一時間とちょっと。鬼怒川に置き去りにされたあなたは、私のアパートの呼び鈴を鳴らす。 「車の鍵、返して」  抑揚のない声は慌ててもいない。  もう、潮時かな。  ドアチェーンを掛けたまま、ドアの隙間から車の鍵だけ渡して、急いで玄関の扉を閉めようとする。群馬の北部生まれのきめ細やかな色白のあなたの頬に涙が浮かんでいた。  でも、もう振り返らない。 二番はいつまで経っても一番になれない。付き合って一年間ずっと、見えない一番大事な彼女の影に怯えていた。どうやったら一番になれるのか、そればかり考えていた。  そもそも考え方がおかしかったんだ、一番と二番を両方手に入れようとする悪どい男なんてさっさと切る。当たり前の結論にたどり着くまで一年もかかるなんてバカ過ぎる。  合コンで知り合ったのを運命だと思い込んで、なんとか気に入られようと必死だった。そこそこのイケメンが地味な私を選ぶなんて、奇跡に違いない。その奇跡は偽物だった。  扉を閉めた玄関から離れて、携帯電話の電話を切るボタンを長押しする。二つ折りの携帯電話の画面が真っ暗になって、私のグシャグシャになった泣き顔が鏡のように映る。目を背けて、携帯電話を畳んでバッグの中に投げ捨てる。  どのくらい時間が経ったかな? うずくまっていたソファーから夕暮れの空を見上げて、携帯の電源を入れる。あなたからの着信履歴やメールを密かに期待していたのに、何も無かった。メールのセンター問い合わせをしても、届くのはお店のクーポンやセールのお知らせばかり。  乾いた笑いが不意にこみ上げて、本当に終わったんだと確信した。たぶん、あなたにとっての私は、携帯に届くお店のクーポンやセールのお知らせと似てる。いつも、側にいるのが当たり前でうざいくらいにこっちを見てよとアピってくる。私にとってのあなたは、春に咲く桜のように愛しく、待ち焦がれる存在なのに。  恋愛はたぶん、二人の愛情の重さを天秤に掛けたとき、大体釣り合うくらいが上手くいく。でも、私の気持ちばかりが重すぎた。あなたはシーソーで一番高い所に留まったまま、おろおろしてばかり。    さようならだね、偽物の奇跡。 最初で最後の二人のお花見、儚く散る桜のように切ない恋は、春と共に消えた。  あれから桜を見る度に思い出すんだ。20年経ってもだよ。あなたは自惚れながら、冷たく笑い飛ばして欲しい。  春風と鬼怒川と桜吹雪と。どんなに心を鍛えて強くしても、ショッピングモールに近い方のU大の桜並木を見ると胸が苦しくなる。U大の敷地内に貼られていたポスターの、「農学部が作った野菜は大学生協で絶賛販売中、あと2㎞、すぐそこ」鮮やかな青抜きのフォントにペールグリーンの背景色。 「美味しいのかな?野菜買ってみる?」 「後で行ってみるべ」 あの日見たポスターも、二人の思い出も色褪せて、セピアを通り越して白黒写真になってる。モノクロになったケータイの写メが心に浮かぶ。桜の下ではしゃいで頬を寄せて撮った写メ。とっくに携帯ごと処分したのに、瞳を閉じると目に浮かぶ。モノクロで真っ白になった桜の花びらと真っ暗な枝。記憶は白黒写真でも、あの日見た、薄紅色の桜は私の心にずっと残ってる。白黒写真を一瞬でカラー写真に戻すように、鮮やかで、激しく、夢みたいな恋だった。  元気でいてくれるなら何も言うことはないよ。やっと強がり抜きで言えるようになった。桜の花びらのように、ふわふわと舞い落ちながら逃げていったあなたへ。そちらの桜はもう咲きましたか?こちらは満開の桜を私を愛してくれる人と共に見ています。あなたもどうか幸せでありますように。 (了🌸)  
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