皇女の願い

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皇女の願い

 皇女リリィは毎晩祈った。寝台の前に跪き、鬱屈とするこのお城での生活が早く終わるようにと。薄い胸の中で恋焦がれ続けた。いつの日にか、自由になって幸福を噛みしめるのだ、と。  美貌の皇妃ヘレナは娘を嫌って、避けていた。皇妃の最大の関心事は権力である。弟のウィリアムを産んだ時は、誇らしい気もしたが、リリィとなるとそうでもない。リリィはヘレナの望んだ子ではなかったのだ。皇女は美人になる素質があった。でもこの子には、美貌を使いこなす能力もない。時代の波にもまれ、かげろうのような生涯を送るだろう。そう見て取ると、ヘレナはもう愛着を感じなくなった。乳母のアビゲイルに預けて、気まぐれに会いに来ることさえない。お城の中ですれ違っても、宴の席でも、ひたすらリリィを黙殺した。低い声で顔をのけ反らして笑い、夫の従者に耳元で何かささやいたり、派手な扇を揺らしてみたり。リリィは冷たい仕打ちにじっと耐えるだけだ。  皇帝のリチャードは母親のように冷淡ではなかった。戦争や国事にかまけて、娘と話す時間は取れなかったが、彼なりに愛してはいたのだろう。遠い外国から帰ってくると、必ず娘の顔を見にやって来た。リリィは気づまりな思いをしながらも、父が皇女の私室で、心底くつろいでいるのを嬉しく思っていた。リチャードの方も親子の会話の糸口を探すのに苦労する。娘相手に遠征先での出来事を話すわけにもいかない。乗馬や狩猟の話題なら大歓迎だった。娘はどうやら馬に熱中しているらしい。大人しい見た目とは裏腹に、皇女はこの残酷なお遊戯を好いていた。  乳母のアビゲイルは感性の細やかな人で、リリィのよき理解者である。実の母親よりも皇女を愛し、気遣っているのに間違いはない。娘のメアリーはリリィの侍女で、唯一無二の親友だった。リリィにはメアリーしか友達がいない。彼女以外の友達は必要ないとさえ思っていた。だって、メアリーにならなんでも話せるもの。一生離れないって約束だし。 「またお祈りしているのね」  メアリーがそばに来て、寝台の上に腰かけた。からかうような、いたずらっぽい表情を浮かべている。 「ええ、毎晩お祈りしてたら、神様だって、ちょっとは願いを聞き入れる気になるでしょ」  リリィは乳姉妹の方を見て微笑むと、お祈りの姿勢を崩してメアリーの脇に腰かけた。  部屋は薄暗い。蝋燭ろうそくのあかりが、おぼろげに揺れていた。 「そうかもね。何を祈っているのよ」  メアリーが茶化してたずねる。 「そうね。早く結婚が決まって、このお城を離れられますようにって」  メアリーは感心しない、というふうに幼馴染おさななじみを見た。 「あなたが結婚しないはずがないわ。皇女ですもの。イリヤ人の男なら皇女を放っておくことなんてできないわ」  メアリーの発言はどこか達観たっかんしていた。確かに、莫大な持参金を取ってみても、皇帝との血縁関係を見ても、リリィは魅力的な花嫁候補だった。それに器量だって悪くない。 「皇女でも結婚しないで死んだ人はいるわ。想像するだけでゾッとする、未婚のままこのお城で一生を過ごすなんて。ねぇ、あなたはこのお城に嫌気がささない?生まれた時から一歩も外に出たことないのよ」  リリィは父の領地から、生まれてから一度も出たことがないのだ。お城を愛してもいた。でも、毎朝起きて睨むのがお城の壁なら、それから今日もこのお城から出ることができないと気づくなら、お城の壁や天井を憎らしく思うのも仕方ないことだった。  リリィが軟禁状態について不満を訴えても、乳母のアビゲイルには同情するよりほかなかった。まったくの箱入り娘ね、とリリィの長い長い黒い髪をくしけずりながら言う。 リリィは「箱入り娘」でいなければならない自分に不服だった。望んでなったわけじゃないのに……  自分の目で世界を見たかった。本物の世界を。裸足で、お城の外の草原を駆けまわりたい。痺れるような、死んでしまいそうなほどの恋をしてみたかった。本物の恋、一生に一度の恋がしてみたかった。   「あなたはね、イリヤの皇女なのよ。きっと素敵な、目眩のするくらい素敵な人と結婚するわ。結婚の心配なんてやめて」  メアリーの熱心な口調が耳に入ってきて、リリィは空想の世界から現実に引き戻された。 「わからないわ」リリィはどうでもいい、という風に言った。「結婚相手なんて自分で決められないもの。期待しておいて後から落胆したくないわ。花婿が優しい人だったら、それだけでもいいのかもしれないわね」
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