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迷い蜂 第2話
「佐倉さん、いらっしゃい」
「ああ、こんちは」
買い物に訪れたスーパーの店先で挨拶を交わす。相手はそこの店長だ。
「ん、あれ、ずいぶんと顔色が・・・」
今ではすっかりと顔馴染みになった店長が、永太郎の顔色が優れないのを見て心配そうに言った。
「あぁ、いやぁ・・・」
かなり身体がつらいことは確かだった。しかし、あまり他人に心配をかけてもいけないし、泣き言も言いたくない。妻を亡くして独りやもめになった老人が情けなく落ち込んでいるように見られるのも癪に障る。永太郎は努めて笑顔を作り、
「俺もだいぶガタがきてるってことだな、はっはっは」と強がった。
「なにかあったら遠慮なく言ってくださいね、デリバリーも致しますから」
店長は永太郎を気遣い、心配と親切の入り混じった笑顔を向けた。
「あぁ、ありがとう」
永太郎はそう言ってカゴを取り、野菜コーナーから店内を回る。
少し目眩がした。目の前の、店内の景色がまるで、夢の中のそれのように現実味がなく見えていた。永太郎はいったんカゴを戻し、トイレに入った。個室の便座に座り、目眩が収まるのを待った。心臓の鼓動も早い。
「うぷ・・・」
永太郎は便座を覗き込むようにして、少し、吐いた。
洗面台の蛇口から手で水をすくって口をゆすいだところで、永太郎は自戒した。
「いくらなんでも俺はどうかしてる。知らん人間に留守番を頼むなんて・・・」
しかし、女からの提案に、あの時はどうにもそれが最良の選択に思えて仕方なかったのも事実だ。実際に、盗まれて困るような金目の物はほとんどない。この家の権利書は長男に譲った実家に置いてあるし、カード類は財布に入っている。
「まさかジジイが描いたあんな絵を盗むわけないだろうし・・・」
「いや、預金通帳や実印があるな・・・年金手帳も」
もしそれらが盗まれたら被害届を出して再発行すればいい、と、焦るほどにはならなかったが、そこで思い至る。(なによりも妻との思い出の詰まった家を汚されたり壊されたりしてはたまらない)と。
「こりゃあ早く帰らんと・・・」
最小限の必要なものをカゴに入れ、レジを済ませ、永太郎は家路を急いだ。
「なにをしとる?」
「おかえりなさい、いや、さっきからコイツがうるさいんだよ」
スーパーの袋を抱えて永太郎が戻ると、家の中では件の女が手を振り回していた。家の中は荒らされたような様子もなく、女がまだいたことに永太郎はホッとした。(・・・いや、ほだされてはいかん、あくまでも赤の他人なんだ)と思い直し、いくぶん厳しい顔を作って、永太郎は尋ねた。
「こいつ・・・って?」
「蜂だよ、ハチ」
そう言われて見上げると、確かに、ミツバチらしき小さな蜂が、部屋の中を飛び回っていた。絵のモチーフの果実と一緒に置いてある花瓶の花の匂いにでも誘われたのかもしれない。
蜂を見た永太郎の心に、ある考えが浮かんだ。それは、家の中に虫が現れるといつも思うことだった。
「こらこら、やめなさい。蜂だって生きてるんだ」
「だってさぁ、刺されたらきっと痛いよ」
「こっちが危害を加えなければ大丈夫だ」
「ふーん、そんなもんかな」
「あぁ、そんなもんさ。今くらいの時季はいつもそうだ。窓を開けているから迷い込んでくるんだ。『迷い蜂』はそのうちに出て行くさ」
そう言いながら永太郎は買ってきたものを袋のままテーブルに置く。すると、興味津々で女が袋を覗き込む。
「何を買ってきたの?」
無遠慮な奴だ、と思いながらも永太郎は、警戒することなく答える。
「温めるだけで食べられるレトルト食品と、死んだ女房が好きだった海苔巻きあられと羊羹だ。明日は女房の祥月命日なんだ」
「ふーん・・・あっ、また。こらぁ!」
女は手を振り回して近付いた蜂を追い払った。
「やめなさい!」
少し荒くなった語気に、女は思わずその身を竦ませて止まる。
「一寸の虫にも五分の魂、と言うだろう? もっとも、お前さんの歳じゃ、そんな言葉は知らんかな」
「知ってるよ。小さな虫だって半分は魂があるんだから尊びなさい、って意味だ」
「なんだ、解かっているじゃないか。なら追い払わなくともよろしい」
永太郎はあられの袋を開けて、小分けにされたひと袋と小振りな羊羹とを小皿に一緒に並べた。それをコンパクトな仏壇に供え、合掌する。その後で、それとなく仏壇の引き出しを開けた。そこに、通帳や実印、年金手帳が入っている。すべて揃って元の通りに置いてあることを確認した永太郎は、少なからず安堵した。
しかしどうだ、その女に相対すると、なにか抵抗する気持ちが萎えてくる。若さゆえのエネルギーに圧倒されてしまうのか?それとも特別な前世因縁でもあるのか? 永太郎は不思議な感覚を覚えていた。自分でも気付かずに歳の近い孫と重ねて見ているせいなのかもしれない、と思った。
女の方へ向き直った永太郎は、先ほど浮かんできた考えを聞かせた。
「それになぁ、もしかしたら女房が、自分の命日だから蜂に乗り移って俺に会いに来ているのかもしれないからなぁ。だから、好きにさせておいてやってくれ」
「それはないでしょ。人間の魂は大き過ぎるから、虫には入れないよ」
予想もしなかった女の反論に、永太郎は面食らった。怖い話は嫌いだーとか、そんなのはお伽噺だと言われるかと思ったが、女のその言葉は、少なくとも魂の存在を全面的に肯定しているからだ。その上で、人間と虫では魂の大きさが違うと言っている。永太郎は、女のその考え方を歓迎し、少し嬉しくなった。
「そうとは限らんだろう。俺だったらそうする」
「だから、魂が入る器が違い過ぎ・・・あ、え? えと・・・」
女は、喋りすぎた、と言わんばかりに口を両手で隠した。
「・・・? なんだ?」
「ううん、なんでもない」
「気持ち悪いやつだな、言いかけておいて止めるなんて」
「あ、おじいさん、オレ、用事思い出したからさ、帰るね」
そう言って女は慌てて出て行った。
「あ、おい、街まで行くのなら送って行くぞ」
「うん、ありがと。でも大丈夫」
ゆるい坂を駆け下りていく女に、永太郎は微笑みながら大きく声をかけた。
「気が向いたらまた来いや」
女は、後姿のまま手を振った。その仕草は『言われなくてもそうする』とでも言っているようだった。
少なくとも今日のところは悪さはしていない。取り越し苦労か、と永太郎は苦笑した。女を見送りながらまだ痛む脇腹をさする。目眩はすっかりと治まっていたが、ひどい倦怠感が永太郎を支配していた。
本来なら順子の法要をするところだが、最近の習慣では、命日ではなく、親戚連中の都合の折り合う日にちで早めに済ませてしまうのが常だ。なので、すでに先月の末の日曜日に済ませている。
それより、先週からどうにも身体の調子が悪い。痛みは酷くなっている。顔が歪む。冷や汗までかき始めた。今日は早目に休もう、と窓もドアも全部閉めた。やけに静かになった家の中に、小さな柱時計の歯車の音と、蜂の羽音だけが小さく響いていた。
つづく
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