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「―――そういう事か」
「すみません……俺が…」
「いや、いいよ。話してくれてありがとう」
史呉の本当の目的は口に出すのが怖くて話せず、それでも店長に俺のせいで向かいの店にお客さまが流れた事などの話せる事を説明すると、逆にすっきりした顔をされた。
「原因がわかっただけで十分。なんでかなって不思議だったから」
「本当に…」
「もういいって」
店長の優しい表情に呼吸が苦しくなる。
「グランドメニューもそろそろ変えようかって料理長と話してたところだったし、これを機に一新するのも面白そうだから今後同じ事を繰り返さなければいいよ」
「……その事なんですけど…」
もう俺は無理だ。
史呉との事も……この店で働くのも。
◇◆◇
「辞めた?」
仕事が終わって店を出るといつものように史呉が待っていた。
眉を顰める俺に近付いてきて、笑顔で聞く。
「久遠の性格からして辞めるよね。大丈夫。俺がそばにいるし、なんならこっちで働けばいいよ。今、求人出してないけど俺からうちの店長にお願いしてあげる。久遠は真面目だからみんな歓迎するよ」
嬉しそうな史呉。
一歩近付かれて、俺は一歩足を引く。
「久遠?」
「………辞めてない」
「え」
「引き留められたから辞めない」
史呉の表情がどんどん歪んでいく。
胸が苦しくなるのは、悔しくて自分に腹が立つけれどやっぱりこの男が好きだからだ。
「もうやめて…史呉」
「久遠?」
「……ほんとに、やめて……」
視界が滲んできて手の甲で乱暴に目元を拭うと、史呉が俺に手を伸ばす。
それに触れたい俺と、避けたい俺がいる。
「……こんなの、どうしろって言うんだ…」
呟く俺を史呉が捕まえる。
俺は逃げる…また捕まる。
抱き締められたら堪え切れない涙が伝って落ちた。
「…っ…無理だ…好きでなんていられない」
「でも好きなの知ってる」
「違う」
「違わない」
きつく抱き締められて、異常に冷たい指先を感じる。
史呉を見上げると、今まで見た事がない、余裕を微塵も感じ取れない瞳。
不安の色を隠さず、明らかに恐怖を湛えている。
「……史呉…」
「好きだよ」
「……」
「久遠が好き。久遠がなにより大切」
絆されるな。
こんな奴、許すな。
「…っ…全然大切にされてない…っ」
「ごめんね、久遠。ひどい事してごめん。でも本当に俺は久遠が好きで、大切なんだ」
「……許せない」
「うん。許してくれなくていい」
大きく息を吐く史呉の肩を軽く叩くとようやく解放された。
「絶対俺を許さないで。許さないって気持ちは心を縛るから、それでいい」
「……なんで」
「久遠を独り占めできるならなんでもいい。俺を責め続けて」
馬鹿な男。
こんな奴、ここに捨てて行ってやる。
「…………帰る」
「じゃあ俺も帰る。ここで別れるけど、気を付けて帰って」
「なに言ってんの? 史呉も一緒に来るんだよ」
史呉の手を掴んで歩き出すと、史呉が少し引っ張られながらついて来る。
震えの収まる様子がない手を引きながら、やっぱりこいつは馬鹿だと思った。
結局怯えるなら最初からおかしな事をするな。
「一生許さないから、一生俺のそばにいろ」
俺は史呉の数万倍馬鹿だ。
END
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