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2.ボンクラ同心
ガラリと無遠慮に障子を開けたのは、北町奉行所の定町廻り同心、浜倉平蔵であった。
「おっとこいつぁ……年の瀬の姫忘れかぇ」
寝間着を肌蹴させたまま布団の上で不貞腐れている蓮之介を見て、ひゅうとばかりに平蔵は口笛を吹いた。
「わかってるならお引き取り願いたいねぇ、ボンクラの旦那」
ボンクラこと浜倉平蔵は、呆れたように肩を竦めた。
平蔵は新設された北町奉行所の定回り同心で、今や飛ぶ鳥を落とす勢いである。しかも肩の凝らないべらんめぇに加え、団十郎か菊五郎かという中々の男前で、八丁堀には娘達による後援会まで結成されている程だ。
いつも通りの着流しに巻き羽織、堂々たる骨格ながら無駄のない肉付きは冨田流免許皆伝の腕前ならではである。
だが、当の平蔵は蓮之介と同い年ながら気ままな独り身で、母代わりに彼を育てた姉・梢と暮らしていた。
この辺りで顔がきく平蔵には、ここに越してすぐに挨拶を為したが、この男は中々の洒脱者か、二人が兄弟だというのが世を偲ぶ仮の姿だと直ぐに看破したのだった。
「休診日だってのは承知の助だ……検視を頼みてぇ」
蓮之介が表情を引き締めた。
その話に呼応するかのように、隣室の襖が開き、紫野が着替え一式と薬籠を手に入ってきた。
「おや、姫先生」
意味深な流し目で、平蔵が紫野を長屋の連中のように『姫先生』と呼んだ。
「お役目ご苦労様にございます、ボンクラ殿」
殊更能面のような硬い表情で、紫野が平蔵を揶揄し返した。
無論、紫野は既に袴をつけ、白衣まで羽織っているが、首筋にはまだ赤味が残っていて、それが何とも婀娜っぽい。
「こんな日は大抵、雪で滑って腰を打った人が担ぎ込まれます。私が留守を預りますから、兄上はお早く」
「姫先生の仰せの通りだ」
気を利かせて背中を向ける平蔵の前で、紫野は手早く蓮之介の仕度を整えていった。
「平さん、次第は」
「日本橋の鶴乃屋が押込まれた。被害者の人数が人数だから、芝神明の純瞠先生にもお出張り願った」
「てことは……皆殺しか」
「ああ。年端もいかねえ丁稚まで、な……」
「何てことを」
怒りに口を引き結ぶ蓮之介の肩に、紫野が手を添えた。その手に、蓮之介が手を重ね、しっかりと握った。
「御仲の御宜しい事で」
舌を噛みそうな嫌味だが、平蔵はその実、二人の絆の深さを知っている。
そして蓮之介らの知己の中で唯一、紫野の正体を知る者でもある。
「もう、旦那、いつまで道草してんですよ」
診療所の待合室を飛び越えるようにして、若い娘の甲高い声が響いてきた。
「キンキン声を張り上げるんじゃねぇっていつも言ってんだろっ、長次っ」
明神下の長次という、男装の十手持ちである。7年前に病死していた父親の長次の名を継ぐことができたのは、3年前、彼女が16の年であった。父親が平蔵の父に仕えていた縁で、今はこうして平蔵の手下を務めている。
「おう、皐月坊、少しは良い女になったかい」
支度を終えた蓮之介は、待合室の外で足踏みをして待っていた長次の額を突いた。
どう見ても少年だが、尻をからげて猿股に包まれた足はすらりと細く、十手が刺してある帯も、男の太さには到底及ばない。何より娘を感じさせるのは、きりりと結い上げた髪の下に並ぶ、大きく黒々とした瞳である。ちよっとタレ目でまつげも長く、普通に黄八丈でも着ようものなら、浅草中の男が振り向かずにはおかないだろう。
「先生、ここでその名はよしとくんなよ。十手の威力が減らぁな」
「何、親分はもう、本名の皐月の名でも立派にお役が務まる十手持ちだって事よ」
「んもう、叩き起こされた割に上機嫌なんだから」
ねぇ、と同意を求めて見上げる長次に、平蔵はにやりと笑った。
「昨日はたんと、兄弟でお楽しみだったのよ。ま、おめぇも大人になりゃ解らぁな」
「だから旦那はボンクラだって言われるんですよ。兄弟で何を楽しむってんです、雪ですかい」
「ハハ……おめぇはまだまだ、おぼこだな」
「何でえ、おいらこう見えても、正月にゃ姫先生と同じ二十歳だぜ、見くびらねぇでもらいてぇな」
「へえ、皐月坊はもう、そんな年頃かい。こりゃボンクラの旦那、早いとこ嫁にしてやらねぇと、祟るぜ」
「おいおい、先生、冗談が過ぎるぜ」
女に不自由をした事の無い筈の平蔵が、珍しく頬を赤らめた。隣で長次も茹蛸のように赤くなっている。何のことはない、とっくに男女の仲だったのだと、蓮之介は微笑んだ。
「江戸の雪は性根が無ぇなあ。お天道さんと一緒にすっかり消えちまいやがって」
蓮之介は、泥濘と化した道を駆け出していったのであった。
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