1.夢見

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1.夢見

 いつもなら明け方に鳥の声がする筈が、異様に静まり返っている。  吉川主碼……いや原口紫野は、蓮之介の腕の中から這い出て、肌蹴た寝巻きの前合わせをしっかりと重ねた。 「雪か……」  子供達の手習いの書き損じの紙で穴を塞いだ障子を開けると、小さな小さな庭に雪が降り積もっていた。 『もっとこっちへ寄りな。凍えるぜ』 『長崎に、雪が降るのですね……』 『大陸が近いせいだろうが、こんなに積もるのは珍しい……これを、おまえに見せたかったんだ』 『ええ、ええ、夢のように美しい……嬉しゅうございます』  京都から長崎へと巡り、出島を見下ろす丘の上に立つ破れ長屋の一間……蓮之介がかつて暮らした一間から、彼が見せたいと手紙に書いてよこした程の美しい雪景色を見つめながら主碼……いや紫野はあの日、蓮之介に全てを捧げた。  雪の寒さを忘れるほどに暖かく優しい蓮之介の愛撫の記憶は、まだはっきりと紫野の五体に刻まれている。 「どうしたぇ」  障子を開けて横座りをしたまま物思いに耽る紫野を、蓮之介が後ろから抱きしめた。 「雪かい……大ぇして積もりはしねぇだろうが、冷えるな」 「でも、あなたの腕の中は暖かい……」 「可愛いなぁ……長崎の事でも、思い出していたかぇ」 「凄い、よくわかりましたね」 「そんな色っぽい顔して雪を見つめてりゃ、いやでもわかるさ……」  眠そうに目を閉じながら、蓮之介が紫野の首筋に唇を寄せると、紫野がくすぐったそうに可愛い声で笑った。 「もう、ここに来てから2年になるのですね。年が明けたら、20になります」 「20か……それにしちゃ、色っぽい『弟』だな、紫野(・・)」 「その名で呼ばれるのも、大分慣れました。あなたこそ、24になるにしては若々しい男前の、愛しい(あに)様」 「馬鹿野郎……」  耳元でそう囁きながら、蓮之介は紫野を横たえ、覆い被さった。       1718年年末。1717年正月の火事以来、慌ただしく奉行所の仕組みや町火消しなどの組織が変容し、街は町民達の自浄作用も得て新たに活気を取り戻しつつあった。  浅草寺門前、伝法院裏にある貧乏長屋・蛇骨長屋。  目抜き通りである広小路からくねくねと表長屋の路地を抜けると、吹けば飛ぶような蛇骨長屋の路地木戸がある。伝法院通りに面した棟割は6畳2間だったり中二階の物置があったりと、職人の家族連れが多かったが、奥に進むに連れその棟割は貧相な小体の四畳一間の区切りになり、浪人やら遊び人やら、得体の知れぬ独り者が多く暮らしていた。  蛇骨長屋でも最も暗く不衛生な裏長屋の突き当たり、3世帯分をぶち抜くようにして小さな診療所が営まれていた。  元は泉州から流れてきた老医師が一人で切り回していたが、耄碌して娘の嫁ぎ先に引き取られていった。  ほぼ無償で市井の者達の為に働いてくれる町医者など、この辺りにはいない。困り果てた長屋の差配が、芝神明前で診療所を開いている松村純瞠に相談したところ、蓮之介に白羽の矢が立ったのであった。  その小さな診療所が息を吹き返した日、長身で爽やかな男前の医師は、女にしては上背があるものの、女のように細く、女以上に美しい、何とも艶いた『弟』を連れていた。 「原口蓮之介です。こっちは弟の紫野。慣れないことばかりで迷惑をおかけすると思いますが、何卒よろしくお願い申し上げます」  真っ直ぐな若々しい挨拶に、長屋の住人は笑顔で応えた。 「弟の紫野にございます。兄共々、よしなにお願い申し上げます」  紫野の控えめで柔らかな挨拶に、長屋の連中はあんぐりと口を開けて見惚れたものであった。  ところが間も無く大火事が発生し、二人は救護に走り回った。それが功を奏し、長屋の住人にすんなり受け入れられたのは良いが、それまでの小さな診療所はあっという間に患者で溢れかえり、とうとう床が抜けてしまったのだ。  慌てた大家が、自分の表長屋三軒分を提供し、鷹屋と大坂屋をはじめとする近在の好意によって、中庭付きの瀟洒な一軒家に建て替えられた。  広い待合室に診察室が2つ、簡易な台所と処置用の小部屋もあり、2、3人であれば泊まり込みでの治療も可能だ。コの字になって中庭を眺めるように廊下を進んだ奥に、台所と二人の私室が一つずつあるが、紫野の部屋は専ら物置で、二人はいつも蓮之介の部屋で一つの布団にくるまって休むのだった。    何しろ口性無(くちさが)い長屋の連中が相手である。余りあれこれ詮索されるよりは、兄弟ということにして煙に巻いた方が面倒がないだろう……とは、成長した主碼を一目見て絶句した師の松村純瞠の入れ知恵であり、普段は極力そのように振舞ってはいるが……二人だけの時は、やはり愛し合う夫婦のように互いの体温を近くで感じていたいのだ。  実際、まだ吾妻藩の仕置については、水野藩に抱き込まれた幕閣への外様大名の批判が根強く、綱堅預け先の内藤家を筆頭に提出された、連名による一色家再興願いへ同調する声も少なくなかった。  しかし、公儀はのらりくらりと引き延ばすばかりで、結論は出ぬままであった。その間にも、直轄地となっていた元吾妻藩領では、綱堅への仕置に反対する領民達の反発も激しく、任官された代官が襲われる事件が続き、今だに公儀を悩ませていた。  この下町の蛇骨長屋診療所で暮らす紫野が、実は元吾妻藩士・吉川主碼で、元小姓で、綱堅の寵愛を受けていたことなど、お家断絶から早6年近くを経て、最早世間からは忘れ去られていると思われた……。 「……あ、蓮之介様、もう……つい4年前まで、と、唐変木の野暮天だったくせにぃ……そこ、だめ……」 「あれ、俺が勉強得意なんだって、知らなかったっけ」 「ちょっ……あん、もう……」 「その可愛い声がたまんねぇや……ここ、好きだろ……」 「だめ、ねぇったら……あ、んん……」  だが、いつまでも絡ませてくれる程、この蛇骨診療所は甘くはない。  裏長屋に面した引き戸が無遠慮に開けられる音がした。 「先生、いるかいっ」  威勢のいい男の声に続き、ズカズカと診察室を超えて寝室のある奥間へと、コの字に中庭を囲む縁側を歩いて来る足音が続く。  紫野は慌てて寝間着をかき集め、しがみ付く蓮之介を突き飛ばす勢いで続きの私室へと逃げ込んだ。  襖の合間に引っかかった腰紐を、紫野がシュルリと巻き取るのと同時に、縁側に面した障子が遠慮なしに開け放たれた。
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