11, 代官の妻

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11, 代官の妻

 雪に覆われた吾妻の冬……。  藩主綱堅が襲撃され、水野家の意を汲んだ幕閣による一方的な裁決によって一色家は取り潰され、藩領は直轄領となった。  綱堅が苦心して開発していた新種の農作物の育成、未だ家を持てぬ避難民達への無償での長屋の提供、近隣の藩とも合意が成った上での宿場町における特産物の販売や、伝馬の効率化による増収。  頭の固い執政達の反対に遭って着手が遅れた為、まだ大きな成果にまでは至っていないが、それらは確実に領民達の生きる希望となっていたのだった。  しかし、唐突に代官所が作られ、赴任した代官による過酷な年貢取り立てや、長屋建設の差し止め、農業用水などの治水工事の差し止めにより、小規模の噴火にさえ藩内の建物は積み木のように崩れていくのであった。    一色家菩提寺である妙通寺の本堂が焼け落ちた時、それまで耐えていた領民達が立ち上がり、代官所を焼き払ってしまった。  たかが領民と侮っていた公儀は、兵を派遣することも考えたが、それは恥の上塗りだと当の将軍・吉宗公が難色を示し、領民に名が通っている人物を代官に据えることとなった。  しかし人選に迷っている間にも、急場誂えに派遣された代官が次々と、着任早々に叩き出され焼けだされるという醜態が続いていた。  そうして、新たに代官として任命されたのは、元吾妻藩小姓・筧市兵衛であった。 「おまえ様、白湯を」  山積する難問に、市兵衛は毎夜頭を抱えていた。  すると、能面のような表情の乏しい妻が、白い顔を綻ばせることもなく、文机に茶を置いた。 「体はどうじゃ、暁子」  妻は、ニコリともせぬまま、頷いた。 「空気が良いせいか、悪い気は起こりませぬ」  抑揚のない言葉を紡ぎ、妻は……暁子は横にひたりと座った。  暁子の乱行は実家の結城水野家をも窮地に追いやっていた。  一族末枝に至るまで、ここぞと結束して宗家である結城水野家を守るために奔走した。  そして存在を消すように暁子を一度出家させてから還俗させ、市兵衛の妻として娶せたのである。  宗家の妻から田舎の代官の妻と成り下がり、還俗することができたとはいえ、江戸での暮らしとは大違いの鄙びた場所では、細胞の一つまで退屈で壊死してしまいそうであった。 「わらわをこのような境遇に追いやった綱堅めは、今頃どうしておる」 「暁子」  未だに元夫である綱堅への呪いの言葉を憚らない暁子を、一応夫らしく窘めてみる。  こうしてみると、荒淫というのも、過ぎれば命を削るというのは真だと、市兵衛は少し顎の線が崩れた暁子の横顔を見つめていた。  あれほど姫様然として凛とした美貌の持ち主であったものが、顎はたるみ、目は落ち窪み、肌ツヤも悪い。 「仕事など放っておけば良い。さぁ」  毎日のように閨を求めてはくるものの、その弛んだ体に、市兵衛自身が萎えてしまうことも一度や二度ではない。  暁子がいつものように、待ちきれずに文机を押しやり、着物の裾をからげて女の部分を露わにし、市兵衛の膝に跨って来た。 「これ、まだ部下が政務室におる」 「構わぬ。奴らとて家に帰れば女房とこう致すのじゃ。何しろ雪ばかりですることがなく、滅入って仕方がない。ああもう、狂いそうじゃ」 「既に狂っておろう……」  市兵衛はうんざりして暁子を突き飛ばした。 「何をしやる」  脚を開いたまま噛みつくように声を荒げる暁子の秘所を、市兵衛が足の裏で踏みつけた。 「思い違いを致すなと言っておろう。おまえは今や一介の代官の妻。己のしでかした多くの不始末を少しは省みたらどうだ。お前の出自が知れれば、この地で外を歩くことも叶わぬぞ」  いや、この恐怖こそが暁子への罰だと言っても過言ではなかろう。  輿を仕立ててこの地に着いた時、食い詰めた領民達が代官所に押しかけ、代官を返上して我が殿様を返せと、口々に叫んでいた。  綱堅による開墾も、藩費で賄われていたお助け小屋も、全て歴代の代官によって潰され、代わりに過酷な税が押し付けられていたのだ。  折角芽吹いた農作物も、代官所の普請に人手を割かれて世話ができず、下士の長屋を立て直すためにやっとの思いでかき集めた資材も、大仰な代官所を立て直すために取られてしまっていた。  然程の愛郷心も持ち合わせていなかった筈の市兵衛だが、赴任してみて、歴代代官のやり方、いや、公儀のやり方に全く血が通っていない事を目の当たりにし、己の総身に流れる血が逆流するかのような憤りを覚えたのだった。  同じ日の本の民だというのに、これまで藩として公儀に尽くして来たというのに……立ち上がりかけた希望の芽を摘んだ公儀にも、全ての元凶である暁子にも、決して収まらぬ怒りが市兵衛の中に充満していたのであった。 「所詮は下賤の者達。生かさず殺さずが信条じゃ」  暁子の捨て台詞に、思わず市兵衛が脇差の鯉口に親指をかけた時、部下が障子の向こうから訪いを告げた。 「早馬が参り、こちらをお代官様直々にと」  受け取った市兵衛は、もどかしげに油紙を剥がし、書状に目を落とした。 「おお、おお! 」  市兵衛は書状を胸に抱きしめ、嗚咽を漏らしたのであった。 「殿、殿……待ち兼ねましたぞ! 」
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