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12.霧中
痩せさらばえながらも、大名家の当主たる衣装に身を正し、同じく小姓としての姿に身を戻した長沼伊織を従え、綱堅は世話になった姉・真知姫に頭を下げていた。
「綱堅殿、吾妻の窮状、妾の耳にも届いておりまする。我らの父祖が苦心して守って参った土地、領民達の苦しみは如何許りでございましょう。我が殿とて、貴方の味方です。綱堅殿がこうしてご無事である以上、一色家取り潰しは全く以って道理に合わぬ事。その上、殿をはじめ譜代のお歴々の連署による家名再興願いも、この度上様の御裁可により、退けられた。同じ三河以来の譜代とは申せ、一色家は管領家に繋がる名家じゃぞ。それを泥侍あがりの水野ごときに煮え湯を飲まされるとは」
「私の不甲斐無さ故にございます。姉上には詫びる言葉もございませぬ」
「綱堅殿……いいえ、これも運命。抗う事はできますまい。せめて我が血筋なりとも繋いでいきましょうぞ」
夫・頼信と仲睦まじく過ごす真知姫は、年相応にふくよかになり、全く毒味のない素直な顔立ちをしている。母が違うとはいえ、安寧な暮らしというものがこうも人を穏やかにするのかと、綱堅は姉の笑顔を見つめていた。
「綱堅殿、願い叶わずとも……早まった事は致さず、綱堅殿に心酔する者達と共に、ここへお帰りなされ。何もない田舎ではあれど、心穏やかに暮らせるはずじゃ」
「姉上……本来江戸にお住いの姉上を、私の為に高遠にお戻しをし、不自由をおさせ申しました。お許しください」
「良いから、お手を上げなされ」
江戸の内藤家屋敷には、頼信の側室と真知が産んだ嫡男が、いわゆる人質として定府している。真知姫は、内藤家預かりとなる綱堅の見張りとして、江戸からこの山間に追いやられていたのであった。
元来正室の子で長子である真知姫は、街場の道場主の娘を母に持つ綱堅には婚儀に居並ぶことさえ許されなかったほどにかけ離れた姉であった。
そんな、公儀の下知によって預けられた身の綱堅を、それでも真知姫は住まいや人手を整え、暖かく見守ってくれていた。
「我らは縁の薄い姉弟。母は違えど、この世でただ二人だけの、同じ父の血を受ける姉弟じゃ。弟の苦難を黙って見ておられる姉が、この世にあるものか」
「姉上……」
綱堅はぐっと唇を噛んだ。
……只今より私は死人となり申す……
手を伸ばせば届くところにいる姉を、体ばかりか心もふくよかで優しい姉を、綱堅は心の中でしっかりと抱きしめた。
母の愛のような温かな抱擁を、あの主碼も紀和から受け、そして無残に奪ったものへの怒りを抱いたのであろうか……今なら、あの頃の主碼が内包していたであろう無情への憤りが良くわかる。
「姉上、どうぞ御息災で。義兄上といつまでも睦まじゅうお過ごしくだされ。江戸に立ち寄り、義兄上にもお礼申し上げるべきところなれど、何卒ご容赦くださりませ」
「おかしな子、まるで永の別れのような……」
まだ肉付きの戻っていない痩せた体で精一杯の礼を尽くす綱堅を、真知姫は一抹の不安を抱きながらも笑って見送ったのであった。
徒歩で高遠城の大手門を潜った綱堅は、足を止めずに伊織に問うた。
「首尾は良いか、伊織」
「はい。あとは火をかけるのみにございます。行き倒れの名もなき男の死体を切腹に見せかけるには往生いたしました」
「酷いことをさせたの……男にも礼を申さねばなるまい」
「いえいえ、殿として葬られるのです、礼を言うのはあちらでしょう」
さっぱりとした伊織に、綱堅は許しを請うような目を向けた。
「伊織よ……おまえはあの江戸で、気ままに暮らす道もあったであろう」
「殿」
「愛らしいお前の手が血で汚れてしもうたは、余の責めじゃ、許せ」
頭を下げようとする綱堅の首に両腕を回し、伊織はその首筋に唇を這わせた。
「私の全ては殿のもの。地獄の底でもお仕え致します」
悲壮な決意を抱いて咽び泣く伊織をしっかりと抱きしめ、綱堅は心の中で姉と義兄に別れを告げた。
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