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14. 血煙
上総屋へ向かうべく月の下を走っていた紫野は、路地からニュッと現れた手に腕を掴まれ、猛烈な力で引きずり込まれた。
「何を……清さん」
暴れる紫野を羽交い締めにしたのは、黒頭巾で顔を覆ってはいるが、その立ち姿は袴田清十郎のものに違いなかった。
「平さん達は上総屋を固めているが……雪之丞らは姿を消した」
「あの折、任せろと私を追い立てておきながら、取り逃したのですか」
身を反転させるなり清十郎に掴みかかって問い詰める紫野の手を解き、清十郎は神妙に頷いた。
鬼堂と雪之丞、本来は仲間と落ち合う所で一網打尽にすべく泳がせるつもりだったのだが、つい紫野の危機を見過ごせずに見境なく飛び出してしまった……2人の手練れを相手にし、紫野らが逃げる時間を稼ぐだけで精一杯であったのだ。
だが、その苦衷は口にせず、清十郎は厳しい顔で紫野を見据えた。
「ここから先は、拙者達の仕事だ。紫野先生は黙って引き返すのだ」
「いいえ、私には決着をつけねばならぬことが……」
「忘れたのか」
矢庭に剣を抜く気配を感じ、紫野は飛び退いた。一の太刀を躱したものの、愛刀を抜くより早く、清十郎の二の太刀が紫野の首筋に張り付いた。
「拙者が本気になれば、こんなところです……今の貴方に奴らは斬れない。血の中に悪人の骸を晒すことは貴方のやるべきことではない、血の中から命を繋ぐことこそが、貴方の今の仕事であるはずだ」
刃を張り付かせながらも、清十郎は懇願するように切ない声を上げた。
「引いてくれ、頼む。蓮さんの……蓮之介先生の元に戻ってくれ、後生だ」
蓮之介の名を出され、反論する言葉を失った紫野は唇を噛み締め、鞘に刀を戻した。
「餅は餅屋。平さんと拙者とで、奴らは必ず捕縛してみせる」
大人しくなった紫野に安堵し、清十郎も刀を引き、やがて月夜の下を走っていった。
帰るべきか、ここで……己の過去から目を背け、蓮之介と堂々と往来を歩くことができるのか……紫野は清十郎が消えた方へと走り出すも、その背中は既に闇の中へと消えていた。
しかし居てもたってもいられず、紫野は上総屋へと足を向けた。
上総屋にはまだ、平蔵ら奉行所の面々が緊張の面持ちで店を囲んでいた。
「姫先生」
折良く表口から出てきた平蔵が、店構えを通りの向かいから見つめたまま所在無く立ち尽くす紫野を見つけて歩み寄ってきた。
「あんたと美和さんが打ち明けてくれたおかげで、何とか後手に回らず備えができた。しかしね……どうも、空振りだと思わざるを得ない」
「ええ……私に正体を明かし、美和さんをあからさまに誘惑したのですから、もう狙いが知れていると分かっている筈です。或いは……」
「或いは」
「こちらに目を引きつけておいて、他を、ということは……」
「まぁ、それも無くはない」
平蔵は紫野の肩を抱き、捕り方の目から逃れるように路地裏に誘った。
「蓮さんには、ちゃんと話した上で来たのかい」
「ええ、まぁ……」
「嘘だな。こんな風に捕物の真似事をするだなんて、言う筈がねぇよな」
平蔵の言葉には、叱るような厳しさがあった。
「あんたは腕が立つかも知れねぇが、餅は餅屋って言葉があるぜ。いざ賊を前にした時、今のあんたよりは長次の方が余程戦える」
「そんな……」
「帰ぇんな」
紫野は目に涙を溜めてまともに頬を膨らませた。そんな表情は、男に興味のない平蔵であっても思わず惹き込まれそうになる。
「何も清さんと同じことを言わなくたって……もう」
溜まらずに平蔵は吹き出した。
「あんたって人は……蓮さんがゾッコンなわけだ。いいかい、姫先生には、姫先生にしかできねぇ仕事がある。何もな、自分の過去に腕突っ込んで掻き回す真似をしなくったって、動くときには動く。いい子でそん時を待ちない」
平蔵こそ、周りの女が黙っていないような粋な笑顔を見せて、上総屋の囲みの中へと駆けていった。
動くときには動く……ならば備えをしなくてはならぬ。
紫野は刀の柄を指で触れた。
今のままでは、蓮之介を守ることもできぬのではないか、と。
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