15.足跡

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15.足跡

 雪絵の産後の経過も良く、翌朝には赤子に乳を含ませることができるまでになっていた。とはいえ、まだ赤子は飲み慣れておらず、雪絵の方も乳の出が良いわけではない。ただ、母親の初乳は赤子の体を丈夫にするとの蓮之介の言葉に、ほんの数滴でも良い、その一心で、雪絵は赤子の口に乳首を含ませたのであった。 「良かった、少しずつでも飲めたようですね。さ、まだ起きているのもお辛いでしょう、もうすぐキネさんがお乳を吸わせに来て下さるから、安心して横になってください」  赤子を雪絵から預かり、紫野は赤子の診察用に作った囲いのある小さな寝台に赤子を乗せた。持ち歩きができるこのカゴ型の寝台なら、安全に赤子を診察することができる。蓮之介の案を元に、蛇骨長屋の住人であるカゴ職人が作ったものだった。    佐藤家の長男は、手足をよく動かす元気な赤子である。健康そのもので、この分ならばあっという間に自力で乳房に吸い付けるようになるだろう。 「可愛いなぁ……」  全身状態を確かめた後、紫野は自分の人差し指で赤子の手のひらを突いた。  キュッと、小さな力ながら、赤子が確かに紫野の指を握りしめた。生命力に満ちたその小さな手の温もりに、紫野は胸が熱くなった。 「紫野先生……」  ぽとりと、紫野の涙が赤子の手に落ちた。  横たわっていた雪絵が、布団の中から手を伸ばして紫野の腕に触れた。 「何かございましたか、先生」 「え、あ、いえ……可愛らしくて、つい」 「先生がいらっしゃらなかったら、私も子供も、或いは命を落としていたのかも知れませぬ。夫は当初、お産は病ではなし、産婆で十分なのに何故医者に見せるのかと……しかしながら、我が家同様、江戸で苦しい生活をなさっていた同胞の奥様が、お産で亡くなられましてね。産み月には早いからと産婆さんが様子を見ると仰って、出血されていても何も手当てをされぬまま、子が流れ、間も無く奥様も亡くなられたそうです。私と同い年の方でしたのよ」  紫野の腕に触れていた雪絵の指先が、ぎゅっと食い込んだ。その手に自分の手を重ね、紫野は雪絵に向き直った。 「お産は病ではありません。けれど、女は命を賭けます。浪人とは申せ武士の娘に生まれ、いざという時の覚悟はできておりますが……子の命は別です。子を失う覚悟を持った女など、ありはしませぬ」  雪絵の目尻から溢れる涙を、紫野は懐から取り出した手巾でそっと拭った。 「心から、感謝申し上げております」 「雪絵様……」 「お悩みのお心の内は存じませぬ。しかしながら紫野先生が、私達のような女達にとって欠かせぬお方なのだということは、お忘れにならないで」  これではどちらが患者かわからぬではないか……涙でぐしゃぐしゃになった顔で、紫野は何度も頷いた。 「あらあら、お綺麗なお顔が大変なことに」  雪絵も涙で顔を濡らしながら微笑み、紫野の頰に指先を伸ばして拭ってくれた。 「姉上……」  ふと、子供の頃に涙を優しく拭ってくれた姉・紀和の温もりが思い出され、紫野はとうとう赤子と一緒にしゃくり上げるように泣き出してしまったのだった。
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