17.幻影

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17.幻影

 その頃、雪絵の診察から戻った紫野は、蓮之介に願って麻布に足を向けていた。  紀和が眠る小香寺である。  姉に会うのだからと、腰には古青江派の無銘の一振り・朧月を差していた。  慣れた足取りで、境内を抜けて本殿を左に廻り、大きな楠を通り過ぎる。  『主碼』の名で呼ばれていた14の頃、霊界への扉のように行く手を塞いでいた楠の枝は肩の辺りであったが、今や腰の辺りに力なく伸びている。  あれほどに手入れの行き届いた墓苑であったが、寺男もいないのか、そこここに枯葉が散ったままになっていた。 「これは……主碼殿ではありませぬか」  張りのない嗄れ声に振り向くと、あの頃よりずっと小さくなってしまった住職が、背を丸めるようにして立っていた。 「御住職……無沙汰をいたしておりました」 「何の。診療所で日夜人の命を救っておられるのです、ご立派なことです」 「そのような……」  少し照れたように瞼を伏せる紫野を、住職は皺だらけの目を更に細め、眩しそうに見上げた。 「お美しい。心映えが、そのようなお姿にさせるのでしょうな」 「……お許しを」  その視線から逃れるように、紫野は楠の枝を退けて、墓苑に足を踏み入れた。  綱堅の生母、そして紀和、瀬良咲弥、三人の墓を掃き清め、線香を供えようとした時、閼伽(あか)桶と花とを、墓苑の入り口にある井戸端に置き忘れてしまった事に気付いた。  取りに戻ろうと踵を返すと、目の前に、紫野が忘れた閼伽桶をぶら下げた蓮之介が立っていた。 「あなた……」 「麻布って言うから、ここだと思った」  蓮之介が差し出した花を受け取り、紫野は嬉しそうに微笑んだ。 「こんなところで、そんな可愛い顔すんじゃねぇよ」  紫野の額を小突き、蓮之介は照れた様子で三体の墓の根元に水を撒いた。  咲弥と紀和の墓は、ただ木柱に銘が書かれてあるだけの粗末なものであり、数年のうちには朽ち果ててしまいそうになっていた。 「雪絵さんから話を聞いてな……ここんとこ、おまえ、思い詰めていたから」  そう言って手を合わせる蓮之介に並び、紫野も手を合わせた。 「佐藤さんが士官した先の水野家、押し込まれたそうだ」 「何ですって」 「純瞠先生が検視に呼ばれたとかで、姉弟子がわざわざ御注進に来てくれた。そのかわり、平さんが張っていた上総屋は無事だったらしい。裏をかかれたというか……もう、俺達の昔がどうのと言う話じゃねぇよ。外道が外道を働いた、金輪際許せねぇ話なだけのことだ」 「……ええ」 「そんな外道、おまえがどうにかしなくても、必ず天罰が下る。おまえはな、ここで紀和さんに誓え、無茶はしねぇって」  蓮之介は、じっと紀和の墓柱を見つめている。何を告げているのだろうとその表情を探るべく覗き込むと、蓮之介がかき抱くように紫野を抱きしめた。 「紫野……いや、主碼よ」 「はい」 「……二度と離れるな。俺はもう、あの長崎で、届かぬお前の身を案じていた頃には戻りたくねぇ。俺を置いて、行くな」  ああ……嘆くような声を出して、紫野が蓮之介の背中に爪を立ててしがみ付いた。 「離れませぬ、離れませぬ……」  互いの魂をぶつけ合うように、2人は唇を重ねたのだった。  
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