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18.荒廃
浅間山は、山頂に雪の綿帽子を被り、冬晴れの下で美しい姿を見せていた。宿場あたりは今年は雪が少ないと見えて、この時期には珍しく、草津の湯治場を目指す旅人達で賑わっていた。
しかし、それは表向きで、まともな旅館は何軒とやっていない。大抵は一軒家の二階に一坪部屋のような小さな部屋を幾つもあしらった安宿で、しかもそこには脂粉に塗れた女たちが待ち構えていた。
覆面をした着流しの青年武士と羽織袴姿の小姓とが連れ立って宿場の目抜き通りを歩いていると、その安宿から女が一人叩き出されて足元に転がった。
「てめぇっ、床入りもまともにできねぇのかいっ、タダ飯喰らいがっ」
後から出てきたのは、いかにも破落戸といった風体の中年の男である。
女は……いや、まだ子供ではないか。真っ赤な襦袢を肌蹴させて、内股に赤い筋を作っている。前合わせから覗く胸元には、まだ乳房とて膨らんでいない。殴られて口の端を切った顔はぶつけようのない怒りに歪んでいた。
「とっとと立て! 」
女を蹴り飛ばそうとした男の足首ごと、小姓が舞うような一閃で斬り落とした。
「うぎゃぁぁぁぁっ」
その悲鳴を聞いて、女の生き血を吸って生きてきたであろう三下共が、だらしのない風体に匕首だけしのばせて飛び出してきた。
「野郎共、この女男、裸にひん剥いて思い知らせてやれっ! 」
騒ぎを涼しい顔で背中で聞きながら、青年武士は落ち着いた物腰で女を立たせた。
「幾つじゃ」
「……12」
「何故に折檻を受けた」
「……月のものがきちまって……今日、初めて客を取ることになってたから……銀次さんが怒っちまって……」
「親は」
「首括った。灰のせいで、畑がダメになっちまったから」
少女は次第に、首を傾げ始めた。
武士の向こうでは、お付きのお小姓が舞でも舞うように破落戸を叩きのめしている。それなのに目の前のこの人は、まるで時の流れが全然違っているかのように泰然としていて……少女は息を呑んだ。
覆面をしていても、この優しい眼差しには覚えがあったのだ。
「とのさま……」
そう小さく口にした少女に、武士は優しく笑いかけた。
「知ってる。あたし、殿様が建てて下すった寺子屋で習ってたの。殿様をお見かけしたこともあるの」
その傷だらけの口を優しく手で塞ぎ、武士は頷いた。
「そうか、覚えていてくれたか。じゃがな、今少し、逢うたことは秘密にして欲しいのじゃ。その方は賢そうじゃから、出来るの」
少女は健気に何度も頷いた。
お小姓が次々に湧いて出てくる破落戸を全て地面に転がし、涼しい顔で武士の側に駆け寄ってきた。
「派手に騒ぎました、お早く」
「伊織、修理にこの掃き溜めの買取を急がせよ。このような悪所、美しき我が藩には無用」
「然るべく……ったって、あの人腰が重いから」
「そう申すな。算盤はあれが最も得意じゃ」
「もう、本当に甘いんだからぁ」
最後のセリフは男のものとは思えぬ鼻にかかった甘ったるい声ながら、小姓は少女に幾ばくかの銭を握らせ、武士を急き立てるようにして行ってしまった。
少女は嬉しさを押し隠すように口の中を膨らませて幸せを飲み込んだ。
きっと、とのさまがこの地獄のような場所を綺麗にしてくださる……みんなに言いたいけど、言えない。でも、もうすぐ、もうすぐ……。
「お姉さん!! 」
少女は店の中に駆け込み、同じように折檻を受けたであろう姉分の女郎を大声で呼んだのであった。
その主従は、やがてかつての吾妻城に辿り着いた。
天領となり、一度は廃城の命が下されたが、強硬な領民の反発にあい、費用も莫大なことから日延べとなっていた。
所詮、山間の小城である。
幕閣はここに城があることすら忘れ、宿場の程近くに白々しい代官屋敷を建てさせたのだった。
武士……一色綱堅は、朽ちて閂さえ壊れている大手門を潜り、虎口になっている石垣に手を触れた。雪に濡れ、冷んやりとしている。かつての温もりを思い出せとばかりに、綱堅は瞑目して石に念を注いだ。
「殿、長うございましたな」
「うむ……お前にも苦労をかけたのう、伊織」
「何の……父が、本丸御殿で待ち詫びております」
「何と、差兵衞か、ここに、ここに参っておるのか」
「はい。父は頑固者ゆえ、この6年、外様の各藩に一色家の正義を伝えると共に主だった家臣の引き取りを願い、自分は一浪人として働き続けました。年老いた姿を見ても、どうぞ、驚かないでやってくださいまし」
それだけで、綱堅は差兵衞の今を悟った。そしてグッと奥歯を噛み締め、涙を堪えた。しかし、どうしても抑えきれぬ嗚咽を漏らす綱堅の手を、小姓……伊織が優しく両手で包んだ。
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