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19.凶兆
代官屋敷には、地下に堅牢な屋敷が設けられている。罪人用の拷問部屋と石牢の奥には、武器庫があり、更に城から流れ出る掘割に直結している舟隠しまである。掘割は水路となって吾妻川に至り、中之条を通って利根川に至る。船で玉村か本庄あたりまで進み、中山道に切り替えて早馬でも乗り継げば、もう江戸は指呼の間と言っても良い。
吾妻代官である筧市兵衛は、公儀からの使者を名乗る武士団をもてなしていた。表向きは、領内の治政の調査だが、その実は暁子の動向を探りにきたのであった。
「江戸では結城水野家に関わる商家が押し込まれておる。つい先だっては枝葉である旗本水野家が押し込まれての。毒で眠らされて刀を抜くことも叶わず倒され、その処遇には幕閣も頭を悩ませておる」
「然様にござるか」
「一色家の再興願いを却下した途端の事ゆえ、公儀も面目を失っておる。こうなれば旗本水野家は士道不覚悟でお家断絶となるしか道はあるまいて。そうなれば類は本家にも及ぶというものじゃ」
役人は、上座にどっかと座る市兵衛を内心では小姓上がりと侮蔑しているかのように鼻を鳴らした。中老の家格とは言え陪臣の立場であった市兵衛だが、一族の思惑によって今や直臣、役人よりは格も役料も上回るのだ。
そこへ、暁子が下女達に酒を持たせて広間に姿を見せた。
「ほう……これがかの、暁子様」
下卑た声を出す役人をじろりと睨み、暁子は正室時代のような打掛姿で市兵衛の隣に座った。
「妻の暁子にござる」
阿る様子は微塵もなく、暁子は3人の役人達を睥睨するが、その目尻には乾いた小ジワが走り、噂で聞いた美貌とはだいぶ時を経たかのような色褪せた矜持が滑稽ですらあった。
「こ、これは、お美しい……」
皮肉るように口の端を歪めて放った役人の言葉に、暁子が手を震わせた。
「よさぬか暁子。最早お前は結城水野家の姫ではない」
殊更出自を強調し、市兵衛が思惑ありげに役人と目を合わせた。
「さぁ、この方達に存分に鬱憤を晴らしてもらうが良い」
市兵衛は、目を剥いて驚く暁子をそのままに、さっさと席を立って広間の障子を後ろ手に閉めてしまった。
「市兵衛様」
すかさず、酒を運んだ女がその眼前に跪いた。その身のこなしは、忍そのものである。
「頭からの伝言にございます。殿が無事に城に入られ、差兵衞様と再会を果たされました。伊佐美と十兵衛は、計画通り、間も無く大きな荷物と共に江戸を発つ段取に」
「そうか、そうか。流石は伊織、ようしてのけた。酒にあれは仕込んだな」
「はい。ここ数年断っておられた阿片、間が長ければ長いほど、思い出した後の執着は激しいと存じます」
広間からは、男達に襲いかかられた暁子が、やがて嬌声を上げて自ら体を差し出している様子が伝わってくる。6年前のあの痴態を思い起こし、市兵衛は汚物を見るような目で障子を見据えた。
「次はいつ着く」
「3日後、盛岡藩当主の弟君が帰参の途路に。先にもてなした前橋藩の中老共が江戸に入り、名家の女と三日三晩の酒池肉林を楽しめると派手に吹聴致しておりますれば、希望者は引きもきりませぬ」
「せいぜい悪評が広がるが良いわ……」
暁子を抱いた男が一人、二人と幕閣に近い身分で増えていけば、それだけ公儀の裁可が汚泥に塗れたものであることが知れる。こんな女のために、水野家は金と地位を使って幕閣を蕩かし、藩庫を使い尽くし、一族から金を巻き上げ、恥も外聞もなく藩士を脱藩させて綱堅を討ったのだ。
「ああ、もっとじゃ、もっとぉ、そうじゃ……あはうっ」
僅かに障子を開けると、前からも後ろからも貫かれ、涎を撒き散らしながら浅ましい嬌声を上げて悦がり狂う暁子の狂態が見えた。
澱んだ目は、阿片が既に脳髄を溶かしていることの現れであろう。あんな濁りきった目で綱堅を見下していたのかと思うと、今この場であの首を斬ってしまいたくもなる。
綱堅の元でなら、いつか執政として手腕を発揮し、藩を豊かにできるかもしれない……思い描いていた夢を潰したのは、他ならぬ暁子だ。
死んだほうがましだと思うほどの恥を、晒すが良い……。
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