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3,血染めの雪
平蔵に連れて行かれたのは、まだ血飛沫も固まらぬ凄惨な現場であった。
「こいつぁ……平さん、こりゃ悪夢かい」
「ああ、悪い夢であって欲しいよ、先生」
日本橋表通りに店を構える呉服問屋・鶴乃屋。各地で生産される紬や友禅を一手に扱う老舗で、大奥とも取引があった。主は中々のやり手で、裏では貸金業をやっているとの専らの噂でもあった。
三人が軽口を交わしていたのも店の表戸を潜るまでの事で、土間に踏み入れた途端に嗅覚を圧倒する死臭に、口を開く気も失せたように押し黙ったのだった。それでも、既に一度現場に来ていた平蔵と長次は、血飛沫や遺体を避けて通りつつ、現場検証を続ける同輩に経過を尋ねていたのであった。
「蓮之介先生、申し訳ねぇが、純瞠先生が急な手術で手が空かねえとか。1人でやってもらうしかねぇんだが……」
「おう、承知した。どこから始めるか」
「長次、先生をまずは奥の主人夫婦の所に」
「へい……さ、先生」
木戸の仕掛けなどを仲間と検分し始めた平蔵の指示に従い、長次は、言葉も無く呆然と血飛沫模様の土間に立ち尽くす蓮之介の手を引いたのだった。
「こうして見ると、案外こじんまりとした身上で、奉公人の数もたかが知れているんですがねぇ」
何故盗賊がここを選んだのかが合点がゆかぬとばかりに、長次が首を傾げつつ蓮之介を奥へと案内した。
確かに、同業の松坂屋や伊勢屋と比べても、取り立てて大きな店構えと言うわけでもなく、裏の地所が特別広いわけでもない。奉公人達が雑魚寝で暮らす部屋が幾つかと、主夫婦と息子夫婦の寝室が並ぶ離れ、そして北に蔵が三つ、並んでいるだけである。いや、蔵が三つも建てば立派なものだろうが、それにしては、家は質素であった。
「なんて酷ぇ真似を……畜生、女子供まで」
「先生、あっしも16からこの稼業やってますけど、こんな惨ぇのは見た事ねぇや」
「だが、俺達が目を背けたら、下手人は上がらねぇもんな、親分」
「仰る通りで」
「さぁ、続けよう」
それでも、長次は時折涙を堪えるようにして手を合わせつつ、遺体の一人一人の名前と年、この店での立場などを説明しながら、根気よく蓮之介の手伝いを続けるのであった。
「斬り口を良く見ておくんなせぇ。こいつぁ、生粋の盗人のモンじゃねぇ、侍ぇの筋だと思うんですが」
当主・政右衛門の息子夫婦の惨たらしい死に様の傍らに腰を下ろし、長次が十手の先で若い嫁の乳房を斜めに断っている血文字を蓮之介に示した。
「ああ、こいつぁ……親分の見立ては大ぇしたもんだ。一見、刀の素人が軽く薙いだ様な傷になっちゃいるが、刀が血脂でダメにならねぇ様に周到に急所の筋を断つ立派な袈裟懸けだぜ。こんな惨ぇ太刀筋は……」
「直神刀流」
江戸では滅多に聞く事の無い流派の名を、平蔵が蓮之介の代わりに口にした。
「結論はまだ早ぇよ、平さん」
一際立派な作りの寝室に入り、床の間に手を伸ばすようにしてうつ伏せに絶命している当主・政右衛門の袈裟懸けの一太刀を検分しようとした蓮之介が、床の間に置かれている文箱が荒らされていることに気付いた。政右衛門が今際の際に握りしめたであろう紙切れを、硬直の始まった指を慎重に解いて広げると、記憶にある家紋が象られた文書の破片であった。
「こいつぁ……平さん、おい、平さんよ」
蓮之介の呼びかけに、平蔵が近寄って覗き込んできた。蓮之介が広げた紙切れを見て、平蔵は察した様子で頷いた。
「長次、この鶴乃屋がどこと取引があったか、全部調べ上げろ。特に武家だ、そうさな……お出入りの大名家とか」
平蔵は周りに聞こえぬよう、長次の耳に口を当てた。
「結城水野家、とかな」
合点とばかりに長次は黙って頷き、外へと出ていった。
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