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4,母
案の定、朝のうちに3人の年寄りが、雪で滑って腰を痛打して診療所に運ばれてきた。
陽が高くなり、目抜き通りの広小路などは、すでに道も乾き始めて怪我人も出なくなり、紫野は遅い朝食を取ることができた。
「御免」
握り飯くらいゆっくり食べたいのに……つい悪態をつきそうになった己を制し、紫野は表通り側の土間に面した診察室の襖を開けた。
「おや、清さん」
2年前から蛇骨長屋に住み着いた貧乏浪人、袴田清十郎であった。
身なりさえ整えれば中々の凛々しい美丈夫になろうかと推定されるのだが、いかんせん破れ小袖にいつ洗ったのか分からぬボサボサの髪、袴など、裾に泥がついたままでも本人は全く気にとめる様子もなかった。
「いやぁ、あなたはいつ見ても美しい。全く以って、蛇骨長屋の天女様ですな」
「わざわざお見えになって、ご用件はそんなことですか」
ならば飯を食らう、とばかりに襖を閉めようとする紫野の手を、清十郎は上がり框に右足を乗せて体を乗り出すようにして止めた。
その淀みのない動き、素早い反応に、紫野はふと警戒の色を目に宿した。
「紫野先生、河原崎座の芝居、見に行きませぬか」
この頃、官許を受けた江戸三座と呼ばれる芝居小屋は、中村座、市村座、そして木挽町にあった山村座であった。しかし盛況であった山村座は2年前に『江島生島事件』に関わって廃座となった。木挽町には他に河原崎座と森田座があるが、従兄弟同士である座元との相座元となり、これより十数年の後、河原崎座は森田座の控え座となっていく。
今月は森田座で既に別の興業が立っていて、通常なら日替わり興業以外空いているはずの河原崎座に、江戸に流れてきた一座が演目を出したのだと言う。
「飽きもせずにまた。私はここを空けるわけには参りませぬ」
「しかし、今日は休診日でござろう。鬼の居ぬ間に、さぁ」
「しつこい」
日頃から紫野に何かと粉をかけようとする清十郎を煙たく感じていた紫野である、去なす言葉もキツイものとなった。
「3日前から掛かった新作なんですがね、『吾妻情話小姓初花』というんですよ」
「吾妻ですって……」
「ええ。先に取り潰しになった藩を元に、若い殿様と小姓の恋話だというので、若い娘がまぁ、列をなしての大盛況。小姓役の立女形の霞雪之丞というのがまた、女よりも美しく婀娜な役者なんだとか……いえいえ、この世に紫野先生以上に美しい男など……」
吾妻……忘れていた言葉が、紫野の中で木霊し始めた。
私室で鏡台の前に座る紫野は、瀬乃から贈られた京友禅をまとい、艶やかな女装姿となっていた。
櫛を使って長い髪を結い上げ、初診の女性の患者を診る時のために買っておいた紅を、ほんの少し薬指に取って塗ってみた。
母が、現れた。
もっと食べるものがあったなら、もっと父の役料が十分であったなら、こんな風にふっくらとした頰を桜色に染める美女だったことだろう。
母は、軽井沢小町と評判の、宿場の旅籠の一人娘であった。
苦労とは無縁だった母が、助教とはいえ下士に過ぎない父に嫁したのは、毎日足を運んでは妻にと望んで頭を下げた父の、その一途さに祖父母が根負けした故だそうだが……。
実は母も、藩で一番の長身で爽やかな姿の父に惚れていたのだと、後に母の友人から聞いたことがあった。
貧しい暮らしであろうとも、父と母は互いに惚れ抜き、藩でも評判の美男美女の夫婦であったという。
「母上、行って参ります」
鏡の中の母に挨拶をなし、ざわつく心を鎮めるように鏡に覆いを被せた紫野は、懐剣を背中の帯の中に隠して私室を後にした。
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