5,霞 雪之丞

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5,霞 雪之丞

 蓮之介に書き置きを残し、紫野は診療所を空けた。    隣を歩く清十郎は、紫野の小袖姿に目を輝かせ、鼻歌交じりに楽しげに歩いている。    吾妻……その言葉に胸騒ぎを禁じ得なかった紫野は、鷹屋の瀬乃から送られた京友禅の小袖に、髪を櫛を使って纏め上げただけの櫛髷にし、薄く紅を差していた。少々上背があるが、細身であるし、化粧をすれば女にしか見えない。  男に診察をされる事に慣れていない若い妊婦を相手にするときなどは、時折このように女に見える支度をすることもあった。いや、殊更女装をしなくても、黒々として月代も当てぬ黒髪を結い上げるだけで、男女の区別はつかなくなるのだが……とにかく、『主碼』の素性のままで出かけることに不安を感じて念入りに美粧をしたが、広小路を行き交う人々が次々に紫野を指差して何某かを耳打ちするので、やはり20歳を目前にした女装は奇異なものであったかと、つい俯いてしまったのだった。 「貴方のことを、どこぞのやんごとなきお姫様だと、噂しているのですよ。拙者とて、男だということを忘れて抱き寄せてしまいたくなる……罪な美貌だ」  とうとう歩みを止めてしまった紫野の肩を抱くようにして、清十郎が耳打ちをした。  無駄に良い声なのがまた癪に障る……紫野は手を払いのけ、先を歩いた。 「殿様ぁ、私はこうして操を立てました。どうぞ、どうぞご寛恕あって、いま一度(ひとたび)のお情けをぉぉ」 「ええい、下郎、手に手を取って男と駆け落ち致しておきながら、今更どの口が物を申すか、痴れ者め! 」 「お許しくだされて、いまひとたびぃぃ」  カンカンっ、と通りの良い拍子木が合間を取り、小姓は殿様に追いすがる。  そこへ、悪者顔に青い隈取をした剣術家が、女の生首を手に入ってきた。 「お家に巣食った悪鬼羅刹のごとき奥方を、この手で打ち果たし候」  ごろりと転がったのは、殿様の正室であり、お家取りつぶしの原因を作った人物の首であった。奥方の実家が公儀の老中に大枚を叩いて殿様の衆道を吹聴し、世継ぎのできる見込みなしと断絶にすべく働きかけたのであった。それもこれも、先に殿様によって奥方が離縁され悪行がバラされれば、奥方の実家こそが取り潰しとなりかねないから、殿様の悪行を増しに増して吹聴し先に潰してしまえと言う魂胆だったと、剣術家が解いてみせる。 「殿様に一意専心にお仕えすべき小姓でありながら、この裏切り者めが! 」  剣術家が、小姓に向かって剣を振り上げると、客席から黄色い悲鳴が轟いた。  紫野は胸を押さえた。  息が苦しく、今にも記憶に呑まれて溺れてしまいそうになっていた。  これはまるで、一色家の内紛そのものではないか……誰が、一体……。 「紫野どの」 「ちょっと、外の空気を吸ってまいります」  紫野は青ざめた顔で小屋の外へと飛び出した。  あの主役の小姓は、おそらく自分だ……紫野は思わず小屋の端に蹲ってしまった。  そして小姓を演じていた役者・霞雪之丞とは……あの美貌には覚えがある。  そう、どこかで見たのだ、誰かに似ているのだ……。 「よう、大丈夫かぇ」  すると、若い男の伝法な言葉が紫野に届いた。 「あ、いえ……」  微かに顔を上げると……今しがた舞台に立っていた雪之丞が、そこにいた。 「えっ……」 「いま引けたとこでよ、ちょいと空気を吸おうかと出てきたらさ、神仏も涎を垂らしそうな美しいお姫様がしゃがんでるんで驚いたぜ」 「あの、芝居は……」 「ああ、この後は剣術家の見せ場があらぁな……鬼堂十兵衛のな」 「鬼堂だと」  ふと殺気を飛ばされた気がして、紫野は立ち上がって一歩引いた。 「俺のこと、どっかで見たのかぇ」  混乱する紫野を揶揄うように、雪之丞がニタリと笑う。  舞台化粧の雪之丞に、確かに誰かの面影があるような気がしていたが……こうして間近で見ると、他人の空似なのかもしれぬと思うほどに、彼の纏う雰囲気は紫野が『主碼』時代に見知っていた者達とはまるで違っていた。 「あんた本当に可愛いな……今度、茶屋で遊ぼうか、お姫様」  伸ばしてきた手を払いのけるようにして、紫野は駆け出した。    
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