6,後の先

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6,後の先

 陽の短い年の瀬、あっという間に日は傾いていた。  紫野と清十郎は、殊更寒い夜風を受けながら船で両国付近まで着けてもらい、徒歩で蔵前を流していた。  紫野は船を降りた辺りから、後ろを歩く清十郎の足の運びに耳を傾けていた。極力音を立てぬ摺り足のような滑らかな運び……。  びゅん  風を切る音に、紫野は考えるより早く身を屈め、材木が立てかけられている路地裏に駆け込んだ。  小さな掘割を背に、紫野は背中の帯結びの中に隠していた懐剣を抜いた。 「袴田清十郎、何者だ」  路地から切っ先を向けたまま月明かりの下に現れたのは、あの貧乏浪人たる間の抜けた表情の男ではない。  剣気を漲らせ、清十郎はゆっくりと刀を下段に構え、重心を落とした。  しかし、仕掛けてくる気配はない。焦れて紫野が仕掛けるのを誘っているのだ。  ()(せん)……。  紫野は間合いすれすれに踏み込み、逆手に持った懐剣を下から斬り上げた。  向きに逆らわずに清十郎の擦り上げの一振りが、肩の上に踊った紫野の剣を弾き飛ばそうと軌道を描くが、紫野はそれを見切ったように体を柔らかく反らせてそれを躱し、ガラ空きになった清十郎の頸部めがけて振り戻しの一振りを浴びせた。  しかし懐剣では僅かに届かず、清十郎の襟元を少し裂いたに過ぎなかった。 「柳生(やぎゅう)新陰(しんかげ)流……隠密か」  ニヤリと笑い、清十郎は刀を引いて鞘に収めた。 「久々に冷や汗かいたなぁ、紫野先生はとんでもない使い手だ……小野派(おのは)一刀流(いっとうりゅう)……いや、その根底に隠れているのは直神刀流(じきしんとうりゅう)か」  紫野はまだ、刀を引かぬまま、清十郎の次の動きを待った。 「ああもう、そんなおっかない顔しないでください。蓮之介先生に知られたら腑分(ふわ)けにされますって……あなた方二人が吾妻藩とは最早縁が切れていること、この2年で十分に分かっています」 「ならば何故……放っておいてくれぬのだ」 「芝居、見たでしょう。綱堅様の姉の嫁ぎ先で、預け先でもある信州高遠(たかとお)の内藤様を通じて出されていた一色家再興願いが、つい数日前、公儀に却下された途端にこの動きです。今日の主役、あれ、貴方のことですよね、吉川主碼(・・・・)殿」  ギリっと、紫野が剣を握り直した。 「どうも一色綱堅様の小姓衆は皆、貴方を恨んでいるようだ。あの芝居でも分かる通り、貴方が蓮之介先生と手に手を取って、藩と殿を捨てて脱藩したことになっている……本当のところ、どうなんです。話によっちゃ、私は貴方と蓮之介先生を守れるかもしれない」 「公儀隠密に話すことなどない」  公儀隠密……それまでは漠然と城を守る忍の者がいたが、8代将軍吉宗は、御庭番(おにわばん)として組織化し、耳目として全国にその諜報網を広げていたのであった。 「違う違う、拙者は忍じゃないですよ。どっちかというと、目付筋です」 「目付」 「はい。大目付(おおめつけ)直属の、隠密探索方です。こう見えてもちゃんとした御家人(ごけにん)なんですってば。ま、貧乏には変わりありませんがね」  あっさりと身分を明かした清十郎に、呆れたように「はぁ」と返事をして、紫野は漸く刀を収めたのであった。  長次の調べで、鶴乃屋が元々結城藩で(つむぎ)を生産する織元であったことが判明した。古くは奈良時代とも言われるその技法の伝承を守りつつ、斬新な色使いや地色の染めに新しい技術を融合させ、暁子をはじめとする結城水野家の女達の心を掴んだのだという。  水野家の庇護で江戸に出店し、瞬く間に大奥に繋がる高位の女性達の人気を集めたことで、その商いを軌道に乗せていた。  その一方で、鶴乃屋は水野家に莫大な融資をしていたのである。  水野家としては庇護の見返りのつもりか、年々要求が大きくなり、昨今ではその関係性も冷えてきたという。  その実は暁子の衣装費と遊興費なのだが、返す素振りの無い水野家に業を煮やした鶴乃屋が評定所に訴える準備を進めていたとは、長次の聞き込みで掴んだ話である。  忘れていた吾妻藩の影が、蓮之介の首筋にじっとりと纏わり付いてくるように感じ、検視報告書を纏めていた蓮之介は思わず頸を叩いた。 「あの野郎、遅ぇな……」  紫野がまだ帰らない。  袴田清十郎と、それこそ本物のお姫様のように粧し込んで出て行ったと長屋の職人に冷やかされ、蓮之介はもう何度も戸口を振り返っていた。 「クッソ……」  やはり座っていられるか……山のように残る仕事を置いて、蓮之介は立ち上がった。      
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