7, 悋気

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7, 悋気

 長屋に面した勝手口を開け、蓮之介は路地に飛び出した。  くねくねと路地木戸へと続くドブ板に沿って進むと、丁度、広小路の方から路地を抜けてきた袴田清十郎と紫野が、長屋の木戸に手をかけていた。 「兄上」  どこか船宿で借りたものか、清十郎が掲げる提灯の仄かな明かりの中でも、紫野の表情が硬く沈んでいるのがわかった。 「清さんよ、こんな時分までウチのを無断で連れまわすのは、感心しねぇな」  清十郎と何かあったのかと勘ぐった蓮之介が、真っ直ぐに清十郎に苛立ちを向けた。 「すまん、この通りだ。どうしてもお見せしたい芝居があってお誘いしたが、舟が中々空かなくてな、遅くなってしまった」 「舟ねぇ……猪牙の中で、手でも温めあったかい」 「おい、左様なことは……蓮さん、本当だ」 「てめぇにゃ聞いてねぇや、このすっとこどっこいっ! おい、どうなんでぇ、紫野。瀬乃さんに頂いた一張羅に紅差して、逢引たぁ良いご身分だぜ」 「どうか紫野先生を叱らんでくれ。拙者が悪い」 「てめぇはスッこんでろいっ! 」  とうとう声を張り上げ、蓮之介は唇を硬く引き結んだままの紫野の手を掴み、力ずくで家へと引っ張っていった。 「参ったなぁ……」  二人の本当の関係を知るだけに、余計な荒波を立てることとなってしまった仕儀をどう申し開きするか、清十郎は頭を捻らなければならなくなった。  強く手を引いたまま診療室を突っ切り、蓮之介は寝室の障子を開けるなり紫野を中へと突き飛ばした。  畳の上に転がり、しどけなく横座りになったまま、それでも紫野は何も言わなかった。  雲が切れ、寝待ち月が姿を現し、二人の寝室に仄かな光を届けた。  乱れた裾の中から、紫野の白い太腿が柔らかな光に浮かび上がる。 「おめぇが間男こさえる訳がねぇ。何があった……その顔じゃ、一色家に関わることじゃねえのかい」 「蓮之介様」  ハッとしたように、紫野が蓮之介を見上げた。 「今日の現場、おめぇに見せずに済んで良かった。酷いのなんのって……鶴乃屋だが、あの水野家と関わりがあることがわかった」  膝をついて紫野の肩に触れる蓮之介の顔に、最早怒りはない。 「おめえのやる事には必ず理由がある……俺ァ、亭主だぜ、おめぇの」  紫野は目を見開き、その大きな瞳からはらはらと涙を零しながら、何かに怯えるように蓮之介にしがみついたのだった。 「清さんは私たちの素性をご存知です。あの方が私に見せたのは、吾妻情話なる芝居。一色家と水野家の経緯を知っている者が書いたとしか思えぬ筋書き。殿を裏切り、男と手に手を取って駆け落ちしたという主役の小姓は、恐らく、この私の事です……」  紫野を抱きしめたまま、蓮之介は闇を睨み、今日1日で二人の周りに起きた事を冷静に整理していた。 「清さんは、隠密かぇ」 「……大目付配下の、隠密探索方とか」 「とんだ狸だな……あいつの襟元に刀で裂かれた跡があった。おめぇだな」 「ええ。私が直神刀流であることを見定めるために仕掛けられ、止む無く」 「……今日の被害者も、おそらく直神刀流の太刀筋で斬られている。いいかい、もう少し相手方の出方を見極めよう。こちらから動いて藪をつつくこたぁ無ぇやな」  しがみつく紫野の手に力がこもる。  ここの生活を愛しているのだ、二人共に。  2年、まだ2年……表通り沿いの戸口に心張り棒をしたとしても、町の者は好き勝手にいつでも裏長屋に面した勝手口から出入りをしてくる。  急患に備えて勝手口に心張り棒をしない二人の矜持を、町の衆は受け入れ、古くからの友人のように懐深く迎えてくれているのだ。  温かなこの暮らしを、失いたくはなかった。 「決着をつけねばならぬのでしょうか」 「だとしても……今は動くな。それに、佐藤さんの奥方の出産を控えている。妊娠初期からおまえがずっと見守ってきた妊婦だろ」  あ、と紫野が顔を上げた。既に、患者を案ずる表情になっていた。  妊婦は大抵産婆の世話になるが、この長屋は産婆にさえ診せられぬ困窮した者が多い。  見兼ねて診察を申し出ても、始めは断られ続けていたが、榊原家の側室・伊津子の口添えや紫野の女性的な容姿も手伝い、徐々に、妊婦の健康管理や出産の立会いの要望が増えていった。  今や、近所の産婆と提携して、田原町や元鳥越町辺りの妊婦は大概、紫野が出産まで診察し、子供を取り上げているくらいだ。 「雪絵様はお身体が細く、多分難産になります。或いは、蓮之介先生の外科処置が必要になるやもしれません」 「そうだな……栄養状態が悪く、貧血もある。少し小さめのうちに出産できるといいのだが……」 「そうですね。月は十分経てますから、そろそろ運動や漢方で出産を促しても良いかもしれません」  ほらな、と蓮之介は微笑んだ。  何のことか、と首を傾げる紫野の、このちょっと幼い仕草が愛しくて、ついその頰に口付けてしまった。 「おめぇも医者の顔をしてるよ」 「私は医者ではありません。強いて言うなら、助産師、かなぁ」 「どっちでもいいや。頼りになる可愛い女房には違いねぇ」 「あ……もう……」  裾を割って滑り込んできた蓮之介の手を、紫野は着物の上から押さえつけた。しかし耳元に息を吹きかけられると、もう膝が崩れてしまって、蓮之介の手で良いように内股を撫でられてしまう。それだけで、もう紫野はあられもない程に蓮之介を求めて、艶めいた吐息を漏らすのだった。 「あんなニヤケたクソ野郎の前でこんな可愛い仕度しやがって……清十郎どころか、おまえを見た男がみんな、脱がせたくて我慢が効かなくなるのを、解ってるんだろうな」 「知らな……あ、ちょっと……や……ん」 「あの野郎、いつか腑分けにしてやる」  蓮之介の手はいつになく性急に紫野を煽る。 「ん、ねぇ……あ、あなたったら……」  そしてその手は、蓮之介に悋気を当てられてちょっと嬉しくもある紫野の真情をもくすぐった。  もう十分に求めてしまっている癖に、それでも紫野は焦らすように背中を向けようとするが、婀娜に抜いた衿から覗く頸に舌を這わされ、思わず少女のような可愛い声を上げてしまった。 「こんな色っぽい声、あのクソ野郎に聞かせちゃいねぇだろうなぁ」 「知らない……あ、ねぇったら……あ、んもう……」 「お仕置きだ……今日は許さねえ」 「……蓮之介さま……あな、た……」  蓮之介はそっと紫野を横たえ、その細い体に重なった。    月が、雲間に消えた。  
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