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8,出産
裏長屋には、代を継いでも士官の叶わぬ生まれながらの浪人も住み着いている。彼らは武士としての矜持に縋り、慣れぬ力仕事や手仕事で日々を食い繋ぎながら、身を立てる日を夢見ていた。
蛇骨長屋に住む浪人・佐藤丈太郎も、そんな浪人の一人であった。父の代からの浪人で、国許で父母を亡くし、士官を求めて江戸に流れてきたのである。
代々、今は改易になった藩の勘定方だったとかで、丈太郎は算術に長けており、月末などは商家の帳簿作業の手伝いなどをして謝礼を得ていた。
無口だが誠実で、長屋の年寄りや子供にも優しい。そんな人柄を見込んだ蓮之介が、江戸大坂屋に紹介し、その正確無比な仕事ぶりが評価されていた。
「1200石のお旗本、水野様のお屋敷に、勘定方として士官が叶いました」
お腹の大きな妻を連れて、丈太郎は休診日に診療所に訪れていた。
妻・雪絵もまた浪人の娘で、大阪屋に使用人達のお仕着せを仕立て届けたところ、帳場にいた丈太郎と知り合い、年頃も良いことから大坂屋の仲立ちによって結ばれたのであった。
「それもこれも、蓮之介先生、姫先生、お二方のおかげです」
目を潤ませて、二人は頭を下げた。
「いいえ、丈太郎様が陰日向なく一生懸命励まれた結果、大坂屋のご主人が水野様に御推挙なさったのです。雪絵様とて、誰もが面倒に思う沢山のお仕着せを丁寧にお仕上げになり、その御誠実なお仕事ぶりに大坂屋の奥様が感銘なされたと伺っております」
二人に茶を差し出し、紫野はそう言いながら蓮之介の隣に座った。
大きな腹で正座は苦しかろうと、長崎から取り寄せた椅子を進めても、雪絵は決して座りはしなかった。夫の隣に、端然と座している。
「時にご新造、食は進んでいるかな」
顔色を見ていた蓮之介が、つい職業病のように診察めいたことを口にした。
「実は……」
丈太郎が言おうとするのを雪絵が制した。
「雪絵様、いけませんよ。医者には顔色ひとつで全て見通されているのですから、何でも打ち明けてくださいまし」
紫野に優しく促され、雪絵が困ったように丈太郎を見つめた。
「実は、ここのところ胎動が強いのか、腹が苦しいのか、妻はあまり食が進みませぬ。水野様からのお支度金で卵を贖ったり致しましたが……」
「失礼致しますね」
膝を進めた紫野が、そっと雪絵の腹に手を当てた。
蛇骨長屋界隈に住む者ならば、紫野がこうして妊婦の腹を触っても、驚きはしない。丈太郎も雪絵も初めこそ戸惑ってはいたが、その女のような容姿と、真剣な眼差しに、むしろ安心して委ねるようになっていた。
「既に9ヶ月は越えておりますから、少しお産を早める漢方を使いたいと存じますが、宜しいですか、雪絵様」
「早める……それで大丈夫なのでしょうか」
「9ヶ月さえ越えてしまえば、誕生してからも自力でお乳が吸えるくらいにはなっておりますし、お二人のお子は少し大きめなようですから、むしろこれ以上大きくなってからのお産は雪絵様のお体に負担がかかります」
その言葉に頷いた蓮之介も、聴診器を当てて胎動を確かめた。
「ああ、この子は胎動もしっかりしてるし、丈夫そうだ。あまり暴れて逆子になっても厄介だ。というか……紫野、もういつ産気づいてもおかしくないぞ」
「ええ。赤子はもう、出たがっているようですね」
にっこりと微笑む紫野の美しさに、夫婦はほうっと呆けたような溜息を漏らした。
「或いは胎動による痛みではなく、既に前駆陣痛なのかもしれませぬ。遠出はなさらず、長屋の中だけでお動きになってください」
「いや、寝ておらねばならぬのでは」
すると、男はこれだからとばかりに紫野が腰に手を当てた。
「動かねばお産は進みませぬ。とはいえ動くと言っても、お三度を致せと申しているわけではありませぬ。家事は丈太郎様がおやりあそばせ」
「は、はぁ……」
「はぁ、ではありませぬ。他でもないあなた様のお子ですよ。妻が命をかける分、しっかりと家事をなさってお支え下さい。お手伝い気分では困ります」
ピシャリと言われ、丈太郎は苦笑しながら頭を掻いた。
紫野に絶大な信頼を寄せる妊婦は誰しも、お手伝い気分で役に立たない亭主共にガツンと教育を施してくれるところが有難いのだと口を揃えるのであった。
そこへガラリと無遠慮に勝手口が開いた。いつものことだと耳を傾けると、近所の職人のダミ声が響いた。
「姫先生よぉー、おたかさん、産気づいたぜ」
すぐさま紫野は薬箱を手に立ち上がった。
「では、行ってまいります」
「おう、頼むぜ」
おたかは長屋の左官職人の妻で、既に4人の子がいる経産婦だ。蓮之介は後詰めで十分だった。
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