9,芝居茶屋

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9,芝居茶屋

 木挽町にほど近い掘割沿いに、その茶屋はあった。 『京恋』  市村座の役者達がよく使う豪奢な茶屋とは一味違う、どころか、この風情は全くもって出会い茶屋のものである。    通された座敷には、冷めきった膳が並び、開け放たれた襖の向こうには、枕を二つ並べた布団が敷かれていた。  枕元には行為に必要になるであろう道具を収めた小箱と、浴衣が置かれている乱箱とが並んでいて、この部屋がそれを目的としていることは容易に知れる。 「女将さん、よく来てくださったね。あたしは舞台の上から美しいあなたを見初めて、食事も手につかないんですよ……」 「まぁ、雪之丞様……」  先程から膳の前で尻をもじもじと揺すっているのは、日本橋の廻船問屋・上総屋の女房、お美和である。  今評判の、河原崎座にかかっている『吾妻情話』で主役の色小姓を演じる立女形・(かすみ)雪之丞(ゆきのじょう)が、三十路の美和の、ふっくらとした手を取って、頬を摺り寄せた。 「ああ、いけませんわ、雪之丞様……」  布団まで引き摺り込むまでもなく、雪之丞は美和の手を掴んで引き寄せるなり、前合わせの中に手を入れて乳を揉みしだき、膝を崩して肌蹴た裾をめくりあげると、その奥の茂みにまで一気に手を滑り込ませてきた……。    話は1刻ほど遡る。  蛇骨長屋で4人目の出産に挑んだおたかは、紫野の手を借りて無事に男児を産んだ。産後の肥立ちも良く、乳の出も良いため、安堵して診療所に戻ろうと路地に出たところで、紫野は診療所を訪ねてやってきた上総屋の女房・美和に捕まったのであった。 「女将さん、こんなところで何を」 「姫先生に折り入って頼みがあるんですよぅ」  元々は芸者上がりの後添えで、実家が元鳥越町で、時折里帰りしては蓮之介に色目を使い、紫野を牽制するような好色な女房であった。 「兄はきっと診察中です」  出産を済ませたばかりで早く休みたかった紫野は、それだけ突き放すように言って診療所の勝手口に手を掛けた。 「大好きな役者から文が届いたんですよぅ。こんな事、蓮之介先生に言える訳ないじゃありませんか」 「え、じゃぁ、御用は私に? 」  肉付きの良い肢体をくねくねと捩らせると、前合わせが緩んでたわわな胸の谷間が露わになる。 「付いてきてくださいよぉ」 「なんで私がっ! 」 「姫先生なら私の女心、わかるだろ。あたしゃこう見えたって、旦那一筋なんだよ。いそいそと出かけて誰かに見られでもしたら、迷惑かかっちまうじゃないか。だから……」 「だったら、どうしてきっぱり断らないんですよ。第一私は男です、女心など存じません」  そう素気無く言い切って勝手口に伸ばした紫野の腕は、逞しい美和の両腕に絡め取られてしまった。 「あんたにはわかるさ、だって色っぽいもん。相手は……男だろ」  蓮之介との事を見透かされたかと無言で片眉を上げると、美和はまた例の鼻にかかった甘い声で紫野に縋り付いた。 「だったら渡りに船だろう、あの雪之丞を近くで拝めるんだからサァ」  呆れながらも、雪之丞の素性への好奇心が頭をもたげ始めていた紫野は、渋々といった体は崩さずに、了解したのであった。  そうして連れてこられた『京恋』では、女将に大まかな事情を打ち明けた紫野が、美和が呼ばれた部屋の隣室を用意してもらったのだった。  紫野は紫地の鮫小紋に平袴姿だが、その美貌から女だと思っている様子の女将は、姉の身を心配して来た妹だと思い込み、二つ返事で部屋を開けてくれたのだった。  紫野は端座し、静かに壁越しに話を聞いていた。  流石に出会茶屋である。隣の部屋の秘め事を聞いて興にのりたいという性癖の客のために、のぞき窓が開いているのだ。  床の間の壁に不自然に掛かっている扇を少し避けると、隣の声がよく聞こえる。だが、隣の部屋の壁にも扇がかかっているので、覗き込んだところで姿は見えない。声だけなら、面体を憚る客も、然程に目くじらを立てはしない。 「女将さんはいつも、どんな風に旦那と楽しんでいなさるのかぇ」 「いやなこと……もう、こんな時に」 「聞きたいんだよ。二人の部屋は、離れかぇ。いやだねぇ、子供も奉公人も遠くにやって、二人で毎晩楽しむのかぇ? 」 「そ、そんなんじゃ……ウチの人は用心深いから、蔵が見える部屋が寝室で……用心棒達がウロウロしているから、手も繋げやしないんだよぅ」 「そうかぇ、こんな女盛りの熟れた体を持て余して、辛かろう……」  美和が何とも悩ましい声を上げ、すっかり雪之丞の手の内に入ったことがわかった。  紫野は背筋が凍る思いで二人の寝物語を聞いていた。  何故、夫婦の寝室のことなどを一介の役者風情が聞き出すのか。しかも、美和は今回が初回の逢引であるはずなのに……。 「まずい」  紫野が懐剣に手を置いて立ち上がった瞬間、廊下側の障子が開いた。 「何者だ」  黒装束に包んだ長身痩躯の男。目だけがギョロリと光る。  隈取のように黒く落ち窪んだその両目といい、右肩が沈んで均整の取れていない体勢といい……紫野は懐剣を掴む手が震え始めたのを感じた。
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