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2話 お手の傷と心の
【Timedefy】
2話〈お手の傷と心の〉
*
「戦様、お手の傷はどうされたのですか」
朝食。
機嫌も気分もよろしくない私に問うのは、この神社の事務員、柏おじさん。下の名は知らん。
柏おじさんは、私の赤子の頃からここにいる。神社の社務所で御朱印書いたり、祭り事の準備をしたり、一生懸命に働いている。
悪いじいさんじゃない。
じゃない、が、少しばかり心配性なところがある。
まぁこんな包帯ぐるぐる巻きでは、誰もが聞いて来るだろうが。
「今朝、掃除中に野犬に噛まれたんだ。どこの野良犬か知らんが、迷惑なこった」
右手で握りづらい箸を持ち直し、白米を掴もうとする。
が、やはりぽとりと落としてしまう。
先程からずっとこの調子で、ろくに朝食が進みやしない。
ししゃも、きゅうりと大根の漬物、白味噌の味噌汁、白米、納豆、緑茶。
これらはすべて、栄養を考えたうえで作られた朝食だ。
週に五日、和食の献立。二日は洋食である。
こんなに豪華な朝食だというのに、今のところ、私は味噌汁と緑茶以外に手を付けられていない。
この右手のせいで。
大きいものを挟もうとしても、指がうまく動かない。だから小さく切ってやろうと箸を動かすが、それもまたできない。
うんざりである。
そんな私の様子に、この場にいる全員が心配そうに目を向ける。
柏じいと、海と、ボディーガードの男ら三人。
「大丈夫だよ。こんなの寝りゃ治る」
そう言った矢先に、箸を取り落とした。
隣りに座っていた海が、私の膳からししゃもの皿を取った。
そのししゃもを自身の箸でつまみ、私の顔の前に上げた。
「……何か物凄く嫌だ」
私が不貞腐れると、海はにこりと笑った。
「じゃあ、食べなくていいのですか?」
それは困る。
それは困るが、嫌だ。
しかし背に腹は代えられないという。ここは我慢するしかあるまい。
仕方なく、私は出されたししゃもをぱくりと頬張った。
*
スニーカーを履き、通学用のランドセルを背負う。
ボディーガードの男が戸を開け、私は会釈をして戸を通る。
その際に傘を忘れずに持つ。
外は大雨で、もうこんな雨ならいっそ、学校も休みになれば……なんて思うのに、世の中そうも甘くはない。
隣には海がいる。
あのにこにこ笑顔の海が。
どうも気に食わない。
いつも私の心の中を読むように行動する。
しかしそれが優しさであることに私が気づいているから、それはまたそれで面倒臭い。
「なんですか?」
海は不思議そうに首をかしげる。
「何もない」
ザッザッと砂利の音を立て、神社の鳥居を潜る。
右手はまだひりひり痛む。
その度に右手だけ力んでしまい、ふるふると震えてしまう。
「手、大丈夫ですか」
海は聞いた。
気付かれないようにしていたというのに、こいつはやはり気付いた。
「問題ない。野犬の牙など」
「野犬ですね、そうですね」
ふふっと笑って私を見るその目は、やっぱりまた暖かい。
何故こいつは親に捨てられたのだろうと考えてしまうほどに。
こんな優しい少年ならば、親は幸せで幸せでたまらないだろう。
私のような親不孝でもなく。
ほわわんと頭に浮かぶ父親と母親の顔。
どちらの顔を思い浮かべても、ぞわっと背筋が寒くなる。
私を含め、子供が八人いる親だ。
養子の海を含めると、私は九人兄妹になる。
そんなこと、学校のクラスメイトに絶対に言えない。
どんな元気な両親なんだ、と、引かれるに違いない。
それを朝から考えると、気が重くなってきた。
右手は痛むわ、朝から襲われるわ、ライバルにあーんをされるわ、今日私は死んでしまうのではないか、と思うくらいに不吉なことが連続で起きている。
思わずため息をつくと、隣で海が心配そうな瞳を向ける。
「やはり、手が痛むのですか」
「だから、いいって」
返答も面倒になり、ぷいっと顔を逸らしてしまった。
そんなとき、後ろからバスが通り過ぎた。
「はっ、嘘だろ」
私は全速力で走った。
バス停まであと数十m。
海が慌てて追いかけてくる。
やはり、今日は災難である。
*
なんとかバスに乗り込み、無事私と海は学校についた。町立の小さな学校で、生徒数も然程多くない。
六年一組の教室は、朝から煩かった。
どうやら今は夏休みの話でもちきりらしい。
もう数日すれば夏休みに入る。
休み期間の友達との約束や、予定の自慢話などなど、周りの生徒は楽しそうに喋っている。
私も海も、どうせ今年も訓練でいっぱいいっぱいだ。
友人と遊ぶ暇も、気も、友人すらも、全てない。
ランドセルを棚へ直し、席に着く。
隣の先の海がすごくじっと真剣にこちらを見ていて、居心地が悪い。
「何だよさっきから」
「いえ、今日の戦様、やけに気力がないというか」
学校でも堂々と“様”つけで呼ぶとは、実にいい度胸をしている。
が、それよりその質問に異議がある。
「あるかボケ」
こんな七転八倒の一日の始まりに、ご機嫌なわけがない。
そこを考える頭は彼になかったようだ。
「いやそうじゃなくて。気力がないのはいつもじゃないですか」
「おお、よくぞおわかりで」
じゃあ何なのだ、と聞きたくなる。
私が首を傾げていると、海は「なにもないならいいです」と机に向かって本を読み始めた。
変なやつだ。
何が言いたいのか、さっぱりわからん。
*
やはり今日は最低な日である。
転校生が来るというのは、先週から知っていた。担任の久本が言っていた。
しかし、こいつが来るとは聞いていない。
黒板の前に立ち、強張った笑顔を皆に向ける彼女。
私は知っている。
「晴島玉乃です。北海道から来ました。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる奴。
隣に座る海は頭を抱えている。
晴島家。
時間士の三大家系のひとつである。
雨野家、晴島家、神鳴家の三つが三大時間士家系と呼ばれ、毎度トップを競っている。
今のところ、トップは神鳴家。続いて雨野家、最下位が晴島家、となっている。
北海道の花畔教会が晴島家の本拠地で、その花畔教会にある“時空の扉”が時間士界隈では有名だ。
教会の中にある、大きな鐘の後ろの一見飾りに見える扉。
それに告げた時代へ、どこでも行ける。
例えば、「三日前の午前八時へ」とでも言えば、その通りへ連れて行ってくれる。
雨野毛のご神木の扉では、十年単位にしかタイムスリップができなかった。
また、過去へ戻ることしかできず、使い勝手も悪い。
時間士は、少しでも時空に歪みがあれば、それを直すのが役目だ。
そのため、一流ともなればタイムスリップすることも少なくない。
その為、秒単位でタイムスリップできるその時空の扉とやらは、さぞ重宝されているのであろう。
*
「何故お前がここに来た」
中庭。
昼休みに玉乃に聞いた。
一応会ったことなら何度もある。
三大時間士は血がつながっており、親戚でもあるのだ。
そのため、大切な用のときなどは“本家”へ集まるようにしてある。
「引っ越してきたの」
玉を転がすような高く丸い声で彼女は答えた。その答えは、玉乃らしいといえばそうだ。しかし、今の私達には地雷を踏んだも間違いない。
頭を抱えて苦笑いの海に代わって、私は玉乃を直視した。
「玉乃、何故時間士は宵闇を封印する」
なんでそんな質問をするの?と言わんばかりの表情で、玉乃は答える。
「時間の狭間に、民間人が連れて行かれちゃうからでしょ?時間の狭間は、連れていかれると帰れなくなっちゃうから」
そうだ。そうなのである。
「じゃあ玉乃、何故三家が北海道、東京、福岡の三つに配置されているか、分かるか」
「え、全国各地に宵闇が出たら、一箇所に時間士が固まってるといけないからでしょ?」
「分かってんじゃねぇか」
私は玉乃に詰め寄った。
銀髪をふわふわ漂わせる、彼女に。
晴れ渡る大空のように青い、瞳の彼女に。
「次期当主候補の二人が、なんで東京に固まる必要があるんだ。なんのために転校してきた。今日からお前はどこに住む」
ヒッと縮こまる玉乃。
「だ、だって……。仕方ないでしょ、私の許嫁に凪くんが任命されたんだから……」
「はぁっ……?!」
私と海は二人して目を大きく見開く。
凪。雨野凪。
私の四つ上の兄である。
現在十五歳。
許嫁とするには早すぎる年齢だ。
と言っても、玉乃はまだ十二歳。
早いとかっていう話ではない。まぁ、昔の人々はこの頃には結婚できたそうだが、法律に逆らえるほど、時間士は権力持ちでもない。
「えっ、ちょ、待って。理解が追いつかない」
私は玉乃の肩を揺さぶる。
海は顔を手で覆って項垂れている。
「なんでこうなった……」
私も同じ気持ちだ。
「せ、戦、海くん、今日からしばらくお世話になるねっ」
玉乃はニコリと笑ってみせた。
それはつまり、家に泊まると。
「しばらくというか、嫁入りするまでだろう。嫁入りするまで泊まって、嫁入りしたら住むんだろ。ホント、勘弁してくれ」
私は頭をかいた。
あのクソ当主様。早く言ってくれ。頼むから。
そして玉乃と凪がもし結婚すれば、私は玉乃の……。
やめよう。考えないでおこう。
*
夕暮れ時、家に帰った。
四時を避けることは忘れずに。
行きには隣りにいなかった玉乃も引き連れて帰っている。
後ろの物陰から、約三名ほど、こちらをつけている。玉乃のボディーガードだ。堂々とついてくれば良いものを。
「只今帰ったぞー」
「ただいま」
私と海が靴を脱ぎながら叫ぶと、侍女が三名来た。
正座で座り、黒い箱に入った封筒を私、海、玉乃に向けている。
「ありがとうございます」
私と海は封筒を受け取った。
玉乃は頭の上に「?」マークを並べている。
「今日の時間士の任務だよ。これが終わらねぇと寝れねぇからな」
そう言って玉乃の分の封筒を渡す。
「あぁ、なるほどね。わかった」
靴を玄関に並べ、三人揃って一度部屋に戻ろうと歩き出す。
と、後ろから呼び止められた。
「戦様」
「ん?」
任務内容を確認しながら振り返ると、表情を乗せず、真の顔で侍女が言った。
「御当主様がお呼びです。応接間に来るように、だそうです」
嫌な予感しかしない。
しかしきっと、玉乃のことであろう。
「了解した。すぐに行くと伝えてくれ」
「御意」
私は急いで自室にランドセルを置き、行灯袴に着替え、応接間へと駆けた。
海は先程、玉乃に家の案内をする、と言ってしまった。
あいつは私のボディーガードなはずなのだが。年齢も同じため、学校へも行けるからだ。
まあ私も守られるほど弱い人材でもない。
私は取り敢えず、嫌な予感とやらがする胸を叩いて、木張りの廊下を駆け抜けた。
*
「御当主様、戦です」
襖の前で正座をし、高鳴る心臓を宥めるような声で言う。
「入れ」
そんな太くて低い声に、また心臓を高ぶらせれる。
すーっと襖を開けたその先は、ひどく広い部屋だ。
応接間だから、大事な行事事などはここで行う。
何度も入ったこの部屋が、今は癪だ。
当主の眼の前に正座で座る。
眼の前と言っても、3mくらい離れている。そんなに近寄りたいものではない。
灰色の袴を着た当主の趣は、実に当主であった。
一家の当主になるには、それなりの学力、戦闘力、信頼が付いてくる。それがある人というのは大抵、それなりの自尊心もある。
彼はその鏡と言える。
我が父ながら、当主に向いた人材だとしみじみ思う。が、父という立場には向いていない。抱かれた記憶は疎か、時間士のこと以外で話した記憶すらない。
私が彼を嫌うのは、そういうところだ。
できるなら関わりたくなかった。
「玉乃の件ですか」
どうせそうだろう、という気持ちで聞いた。
が、どうも違ったらしい。
「それは自分から知ったろう」
成る程。
同級生となるのだから、わざわざ言わずともいずれわかるものであろうと。
こういうところが嫌いだ。
言ってくれればいいのに。というか、言わなければならないことだろう。
兄が許嫁になったことくらい、言わなければならないだろうに。
それをもし私が知らなかったらどうするつもりなのだろう。
……否、きっと彼はどうもしないだろうな。
私のこともそうだが、凪のこともそうだ。
他の兄妹のことも、全く愛というものがない。注ぐ側には分からずとも、注がれる側には分かるものが、愛というものだ。
例え私が今朝、暁に食われようと、彼は泣かなかったのだろう。
いっそ食われて、天から泣くか泣かないか眺めてやりたかった。
結果はもうわかりきっているのであるが。
「今日呼んだのは、他の誰でもない、お前のことを話すためだ」
とは。
いい話か、悪い話か。
あぁもしや、今朝の諍いがバレでもしたか。
この右手の怪我、暁にやられたとバレたのか。
「というと?」
「お前の許嫁が、栞に決まった」
……あぁ、嫌だ。
何の話かと思えば、“そっち”系。
栞。晴島栞。
三人兄弟の晴島家の長男だ。
私とは二つ違い、玉乃の兄である。
しかし長男だというのになぜ次期当主候補ではないのか。
簡単な話だ。
体が弱いからだ。
体が昔から弱く、時間士の役目を果たせない。つまり、時間士としての実力も、弱い。
週に一度は寝込むため、学校にもろくに行けやしない。
そのため、勉強もある程度しかできない。
そのため、すぐに次期当主候補を外された。 私がなぜ、そんな彼と。
私は雨野家の次期当主候補だ。
それも、一番有力な。
強い者は強い者と結婚し、子を孕む。
その子は病持ちなどでなければ、確実に母よりも父よりも強い子になる。
つまり、私が彼と結ばれるのには合点がいかない。
私は雨野家の今の世代で、一番に強いとか言われる身分だ。
そんな私が、なぜ。
「何故ですか」
酷く冷えた声だったことだろう。
しかしそれに対する声もまた、冷たかった。
「お前、その怪我はどうしたのだ」
「は」
彼の目は私の右手にある。
彼が私の心配をするとでも?それは有り得ない。
つまり、気付いているのだ。暁にやられたことが。
彼の言いたいことが瞬時にわかった。
『暁に襲われる程の弱者には、次期当主を任せられない』とでも言いたいのだ。
だから、当主にならず、結婚し、そこそこ強い子を生む。
それで充分だと、彼は言いたい。
「反論があります」
「『暁を倒せるほど強い時間士はこの屋敷にいないだろう』ということか」
「左様」
「私はな、倒せなかったことが弱いと言っているんじゃあない。お前が“四時に外に出たこと”が弱いと言っているんだ」
「どういう意味ですか」
「お前はきっと、暁や夕が出ても、倒せるという気があった」
「……何の話ですか」
「四時に彼らが木から出ることくらい、幼子でもわかる。しかしお前は外に出た。つまり、倒せるという自尊心があったのだろう」
わからない。
わからないけれど、その通りかもしれない。
あぁ嫌だ。
本当に気分が悪い。
「それが駄目だと言っているんだ。時間士は、油断をしたら一発で命を奪われる。そんなこともわからないお前が、弱いと言っているんだ」
弱い。
よわい。
ヨワイ。
ムカムカする。
彼と話していると胃のあたりが気持ち悪くなる。
もう何も、聞きたくない。
でも、そんな焦った様子は見せられない。
「……だからといって、私と栞は不釣り合いが過ぎます。せめて玉乃の弟の颯人でも」
「それはつまり、油断した自分が弱いと、認めたということか」
また喉のあたりに何かが疼く。
駄目だ、こいつと話していると本当に駄目だ。
「油断などしていない」
「じゃあ、なぜ庭へ出た」
その質問は、私を困らせるためのものだ。
だけど、困りたくない。困ると認めてしまうことになる。
けれど嘘を付くとすぐにバレる。
暁に手をやられたのがバレたように。
どこから入手した情報なのかは知らんが、バレる。
私はとっておきの本音を見つけた。
それを口に出すことで、彼はどんな表情を見せるのだろう。
思い切って口を開いた。
「死ねばいいと思ってた」
それだけ言って、さっと立ち、部屋を出た。
襖を閉めてすぐ、腹と口を抑え、しゃがんだ。
気持ち悪い。
もう、彼と話したくない。
声も聞きたくない。
父親に対してそう思うのは親不孝であろうが、心は兎も角、こうやって体が父を拒む。
もう、話したくない。
すると、ふっと何か暖かい物が私を包んだ。
顔を上げると、海がいる。
海の着ていた、薄いカーディガンを私の肩に掛けている。
その目は優しい、暖かい。
「行きましょう」
何を思ったか知らんが、彼は私の体を腕で包んだまま、持ち上げた。
姫抱きだ。
「なんでだよ」
「逃げないようにです」
「玉乃はどうした」
「任務に送りました」
「お前の任務は」
「戦様の様子が気になったので、見てから行こうと思いました。それでこれです」
「……御当主に呼ばれたからか」
「それもありますよ。御当主様と話したあとはいつも、気怠げでしたから。でも、今日は朝から変な感じでした」
「変な感じ?」
「そう。体調が、悪そうだと」
「機嫌は悪かった」
「気分は?」
「わからん」
「戦様は体調不良を気付きませんからね、こちらから気付くようにずっと見てるんですよ」
「どんなとこが変だった」
「顔色、声色、口調、歩くスピード、あくびの回数、」
「あぁ、もういい」
彼はずっと私を見ている。
赤子の頃からずっと。
だけど、私もずっと彼を見ている。
彼以外、見ていないくらいに。
*
「寝ましょう」
「やだ」
私を布団の上に座らせ、体温計片手に怖い笑みを浮かべる海。
「まだ任務も報告書も、学校の宿題も終わってない」
「任務は僕が代わりに行きます。報告書も僕が書きます。学校はあすは休みましょう」
「やだ」
「何いってんですか、熱で頭沸いたんですか、38.7度。絶対安静ラインです」
「海、口調出てんぞ」
「あっ、いけない」
怒ると出る海の口調。
あの刺々な言葉。
しかしそれは、私を思って怒ってくれたのだ。
嫌な思いはしないな。
「任務くらいは行かせてくれ」
「駄目です。それで上がったらどうするんですか」
「どうもしねぇよ、そんのときはそんとき」
「駄目です。絶対駄目です」
海の押しに負け、私はin布団。
全くキツくもないくせに、体温だけは正直だ。
「僕は任務行ってきますから、何かあれば香澄さんに」
部屋に入ってきたのは若い黒髪の女。
侍女の香澄だ。
なんの表情も浮かべない彼女の顔は、常に冷たい。
「じゃあ、行ってきますね」
「はいはい」
海を布団から見送り、私は布団に潜る。
これ以外にすることがない。
寝ろと言われたが、 寝たいのだが、できない。
今寝たら、嫌な夢を見そうなのだ。
具体的には考えたくもないが、夢を見ないために、寝たくない。
と思っていたのに。
体温は正直である。
香澄の測った体温計のピピッという電子音とともに向けられた言葉。
「39.1度。おやすみなさい」
簡潔な言葉であった。
それを聞いた瞬間、急に体が怠くなって、すぐに眠りについた。
夢を、見たくないと考えながら。
*二話〈お手の傷と心の〉完
(漢字表記)
柏(かしわ)
晴島玉乃(はれしま たまの)
許嫁(いいなずけ)
雨野凪(あまの なぎ)
諍い(いさか)
晴島栞(はれしま しおり)
晴島颯人(はれしま はやと)
香澄(かすみ)
花畔(ばんなぐろ)
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