父を買う

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父を買う

 はじめてのバイト代で、父親を買った。三月、まだ肌寒い晩だった。  父親がどこに立っているかは知っていた。誰から聞いたわけでも、見に行ったりしたわけでもなく、いつの間にか。観音通りとかいう妙な名前で呼ばれる売春通り。その奥の方で、街灯から少し外れた薄暗闇に、父親は立っていた。    見るからに未成年の俺の袖を、それでも引っぱってくる女たちの白い手を振り払いながら目の前まで行くと、父親は軽い感じで目を上げ、俺の顔を見て、静かに瞬きをした。  少しくらい動じろ、と思った。  どんな極楽鳥みたいな恰好をして立っているのかと思えば、ごく普通の、普段ちょっと外出するときくらいの格好をしていた。俺が生まれたとき、はたちだったはずだから、今は35歳。35歳の地味な感じな男が立っているだけ。それでも買い手がつくんだから、売春って言うのは、よく分からない。  「いくら。」  喉の奥の方にこみ上げてきた、粘っこい感情の渦を飲み込みながら訊くと、父親は淡々と、イチ、と呟いた。なんだか、全てを諦めた後みたいな、ぽっかりした空白を感じさせる声だった。  「一時間?」  重ねて聞きながら、吐き気がした。この男を、実の父親を、一万円で俺はどうしようとしているのか。  「一回。」  父親の返事はやっぱり明瞭だった。一回。なにがどうなれば一回なのか、そんなことくらい分かっているつもりでも、脳味噌がふわふわした。多分俺は、まだこの男がここに立って客を引き、その客と寝て金を得ているという事実を、認めたくないのだ。昔、俺が物心ついた頃、この男は市役所職員だった。  「先払いで。」  父親は、あまりにもあっさりと、流れるように言って俺に手を差し出してきた。  躊躇いは、ないのか。実の息子に、一回一万円で買われることへの、躊躇いや、嫌悪や、罪の意識や、よく分からないぐるぐるした感情は、ないのか。  俺は、父親の手の上に、一万円札を一枚乗せた。かつてこの手を、この世のなによりも安心できるものだと信じて、つかまって歩いたことが、俺にはある。それが、今となっては大きさは俺のものと大差ない。厚みだけは、まだ追いつけていないけれど。  タカをくくっているのだろうか。本当に俺が、実の父親を買ったりはできないと。  そう思うと、脳味噌の奥の方が、じりじりと痺れた。  父親は、一万円札をハーフコートのポケットにねじ込むと、ふらり、と歩き出した。逃げる気か、と俺はその背中を追ったけれど、父親はすぐにぼろぼろのラブホテルの前で足を止めた。      
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