父を買う

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 俺はその視線を認識して、我に返った。あの男を殺して、俺も死ぬ。もう、そうするより他に、道はない。  「……ナイフ、返して下さい。」  男の人は、ナイフを押し込んだハンドバッグを俺の前にひらつかせると、にっこり微笑んだ。  「返せないかな。俺、敬吾さんのこと、結構好きだし。」  人懐っこい、夜の匂いがしない笑顔だった。俺はちょっと毒気を抜かれた。その俺を見て、彼は更に笑みを深めた。  「殺されちゃったら、寂しくなるよ。」  寂しい。  父親の不在を、そんなふうに感じる人がいることが意外だった。実の息子である俺ですら、そんな段階はもう過ぎてしまっているので。   「……なんで、寂しいんですか?」  半ば無意識に転がり出した問いは、妙に幼い響きをした。空が青い理由を尋ねる子供みたいに。  「敬吾さん、古株だしね。あんまりなにも言わないから、わずらわしくなくて逆にいろいろ相談しやすいっていうので、いろんなこの話し相手になってくれてもいるし。」  「息子の俺とは話したことないのに。」  彼の言葉に被せるみたいに、反射で出てきた台詞に自分でも驚いた。そんな、父に相談に乗ってもらっているとかいう売春婦たちに、嫉妬でもしてるみたいな。  金茶の髪の男娼は、軽く肩をすくめた。白いショートコートに包まれた肩は、なだらかできれいなシルエットをしていた。  「実の親子だと、逆に難しいこともあるんじゃないの?」  ありふれたおためごかしだと思った。ぺらぺらで、なんの意味もない慰めだと。けれど、彼が俺の肩に置いた手には、妙な重さが宿っているような気がして、戸惑う。  「俺、家族とか、よく分かんないけど。」  彼はさらりとそう言った。俺は、その言葉に流されるみたいに、俺も、と呟いていた。  「母親は、物心つく前に死んだし、父親は、ずっとここで売春してるばっかで話したこともないし。俺も、家族とかよく分かんない。」  すると彼は、え? と呟いて、軽く首を傾げた。  「母親って、ひばりさんじゃないの?」  今度は俺が、え? と首を傾げる番だった。目の前に立っている彼は、せいぜい23歳くらい。俺の母親が死んだ10年前は、彼だってまだ子供だったはずだ。  「そう、ですけど……。」  「だよね? きみ、ひばりさんそっくりだし。」  母親に似ている。そう言われるのもはじめてだった。俺は、困惑してきれいな男娼を見上げた。そっくりっていうことは、このひとは、俺の母親を見たことがあるのか。10年前に死んだ、俺の母親を。
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