父を買う

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 マンションのドアを開け、短い廊下を抜けるとリビングがある。そこには深緑色のソファが置かれていて、父親がぐったりと身を沈めていた。いつもの光景だ。まったくもって、いつもどおりの。そしてさらにいつも通りにいけば、俺は父親の横をすり抜けて奥のドアを開け、自分の部屋に逃げ込むことになっている。言葉どころか、顔を見かわさないで。  父親は、俺がそのいつも通りの殻を破って、ソファの前に立っても、動揺した様子も見せなかった。身体を起こすこともせずに、ただ空気の抜けかけた人形みたいな姿勢で座っていた。  「……なんで、母親が生きてるって、俺に言わなかったんだよ。」  きれいな男娼と別れてここに戻ってくるまでの数分間、頭の中で言葉をひねくり回してはいたが、結局出てきたのはそんなつまらない台詞だった。父親はゆっくりと瞬きをし、平然と返してきた。  「死んでるとも、言ってないけどね。」  俺は黙った。確かに、そうだったから。俺はこの男から、母親についてなにも聞いてはいない。生きているとも、死んだとも。ただ、俺が勝手に死んでいると思い込んでいただけだ。  「……だからって、分かってただろ。俺が勘違いしてるのは。」  父親の、まるで動じていない態度に苛立って、俺の言葉は幾分荒くなった。それでも、父親はやっぱり、視線すらだるそうに宙の一点に投げやったまま、するりと応じた。  「必要を感じなかったので。」  「……俺の、母親だろ。」  「だから、なにか?」  言葉に詰まった。だから、なにか? 問われれば、言葉が見つからない。実の母親の生死すら分からない状況で、それでもここまで生きてきた俺には。  父親の視線が、虚空から俺に移動した。色の薄い目をしていた。関心が、薄いせいかもしれない。  「ただ、腹から生まれたってだけで、なんの権利を持ってるつもりなの?」  関心が薄い。そう思ったのは確かだったけれど、父親の言葉に含まれている感情は、薄くはなかった。そこに熱すら、俺は感じた。同じ施設で育ち、同じ家に暮らし、子どもまで作った女に逃げられたこの男は、そんな記憶の一切を持たないのに、当然の権利みたいに母親の情報を求める俺に、確かな怒りすら覚えているようだった。父親の目が、燃えていた。これまで、一度も見たことがない色だった。蛍火みたいな、青白い炎。俺はその色を見て、なぜだか他人事みたいに、きれいだ、と思った。
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