父を買う

6/21
前へ
/21ページ
次へ
 一万円分のセックスを終えて、父親は風呂場に消えて行った。俺は仰向けになったまま天井を眺め、じっと動けずにいた。  目に浮かぶのは、俺の上で腰を振っていた父の姿ではなくて、一粒の涙を流した父の姿だった。どんなに貶めようとしても、平然と笑っていたくせに、なぜ、涙まで。  父親は、すぐに戻ってきた。あっけらかんと、裸のまま。  「風呂、お湯溜めときましたから。休憩時間はあと二時間くらい残ってるし、ゆっくりしてってください。」  そう言って、ひょいと下着を拾い上げる父親の手首を、俺はほとんど無意識に掴んでいた。  「なんで、泣いたんだよ。」  ぎすぎすと掠れる声で問いかけると、父親は、なにを訊かれているのか分からない、と言いたげに首を傾げた。俺は、その仕草に苛立つ。あのとき確かに父親は涙を拭った。気が付いていないとは、言わせない。  「なんで、泣いた。女抱けないのかって訊いたら、あんた、泣いたよな?」  問いを重ねると、父親は困った顔をした。それはどこか芝居がかった表情で、面倒くさい客にはそれを向けることが、父親の中で決まりになっているみたいだった。  「一回一万円。それが私の値段だし、私にとってのあなたの値段ですよ。」  困ったな、と言いたげに肩をすくめた父親。俺は、鴨居にかけたコートのポケットから一万円札をもう一枚引っ張り出して、父親の胸に押し付けた。  「答えろよ。」  金なら、出すから。  父親は、躊躇いも見せずに札を受け取り、ハーフコートのポケットにねじ込んだ。俺は、その動作に傷ついたはずだ。一回一万円が、私にとってのあなたの値段。その言葉にも、確かに。だって、目の前にいる男は、実の父親だのだ。この世に、たった一人の。その価値は、この男にとっては、値段がつけられるようなものだったのか。無償の愛、なんてねぶたいことを言う気はないが、それでも、一回一万円、は即物的すぎはしないだろうか。  「女、抱けないんですよ。ほんとに。」  金を受け取った父親は、水が高いところから低い所に流れるみたいにあっさり、そう言った。   「泣くほどのことでもないと思ってるんですけど、泣きましたね。」  「……この商売、はじめてから?」  「いいえ。以前から。」  あなたの母親以外は、と、ごく低い声で父親は言った。それは、短い祈りの言葉にも聞こえた。俺は、その祈りの密度と言うか、重さというかに押されるみたいに黙り込んでしまった。すると、父親はひっそりと微笑み、俺のこと、殺すつもりだったでしょう、と言ってのけた。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加