父を買う

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 地味で痩せた父親の背中を、俺は言葉もなく見送った。言葉なんて、いくら探しても俺の中には一つも浮かんでこなかった。  布団の上にひっくり返り、右腕を目の腕に乗っけた。闇が、一段と深くなる。  家に帰ったら、また父親と暮らすしかない。一人と一人みたいな暮らしではあるけれど、同じ空間にいるしかなくなる。一度は、肌を重ねた実の父親と、俺はどんな顔をして一緒に暮らせばいいのだろうか。  一人で暮らそうか。  そう思った。  高校を中退して、就職するか、今のバイトを続けるのでもいい。とにかく自分で金を稼いで、父親のマンションを出る。これまでだって、考えたことのないプランではなかった。今までは、高校くらいは出ておいた方が良い、と、自分で自分に枷をはめていたけれど、もうどうでもいい。そもそも、実の父親と寝たのだ。まともな顔をして制服を着て、学生鞄を下げて、高校に通う方が無理があった。  一人で暮らそう。  口に出して呟いてみる。  一人で暮らそう。  無理なことじゃない。どうにだって、食っていくことくらいはできるだろう。それなのに、俺の中でちらちらと燃えているのは、残り火みたいな未練だった。  ぞっとした。自分が化け物みたいに思えた。実の父親の肌に未練を残して、連れ込み宿の布団に横たわっている。こんな姿は、まぎれもなく化け物だ。  俺は、弾かれるように布団から起き上がった。裸の肌に、下着もつけず、直接トレーナーとジーンズを引っかける。そして、コートのポケットから、新聞紙にくるんだ果物ナイフを引き抜いた。  脳がちりちりと焼けるような音が、耳の中で聞こえた。未練だ。未練と憎悪が、俺の脳味噌を焦がしている。その音に急き立てられるようにして、俺は裸足のまま連れ込み宿を駈け出していた。   宿の表に出て、左右を見わたす。父親は、いない。もう、自分の持ち場に戻って男の袖でも引いているのだろう。そこまで考えると、脳を焼く炎はさらに勢いを増した。もう、生かしてはおけないし、生きてもいられない。  俺は果物ナイフを腹の前に構えたまま、走って父親が立っていた街灯の方へ向かった。来るときは、しつこく俺の袖を引いてきた売春婦たちが、今度はまるで手を伸ばしてこない。多分、俺の尋常ではない気配を感じているのだろう。今、袖を引かれたら、俺はその女と父親との区別もつかずに果物ナイフを突き刺してしまうかもしれなかった。
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