「     」上巻

8/12
前へ
/12ページ
次へ
すっと耳に入ってくるピアノの音色。気づいたころにはもう遅い。雑雑とした僕の心に入り込んで、すべてを心地よく浸食してくる。それに気が付かないはずもなく、はずもないのに、気が付かないふりをして、そのままの形を保っている。また、薄かった音色がだんだんと濃くなってゆく。最初は浅かったけれども、まるであの時のように、だんだんと深層にまで潜ってくる。音の存在自体、まるで自分自身かのようにさえ思えてくるくらい。    体の奥深くまで入り込まれ、道も分からぬまま、音のするほうに吸い込まれる。目をつぶっていても、音のするほうに体が勝手に動いていく。この非現実的な出来事に、違和感を覚えるでもなく、それこそが自然の刹那であるかのように、ただただ自然に、怖くなるほどに。    気が付いたころにはもう遅い。いつの間にか、昨日のあの場所にまでたどり着いている。道も何も分からず、彷徨っていたはずなのに。怪奇現象に身をふるわせながらも、昨日、彼がいた、音のなるほうへ目を向ける。    何も言わず、ただ静に鳴り響くピアノのように、どこか不気味で、何処か儚い、不思議な空気をまとう少年が、綺麗なまなざしでピアノと指を行き来していることを確認する。    昨日彼は、毎週日曜日にここにいると言っていた。今日は月曜日。きっと、嫌だったに違いない。僕の存在が邪魔だったに違いない。だから彼は、毎週日曜日のここにいると、嘘をついて、俺を自分の領域に入れようとしなかったんだ。そうならそうと、言ってくれればよかったのに。言ってくれれば、もうここに来ることもなかったし、邪魔にもならなかったのに。    そりゃあ、僕は会って間もない人間だ。あって間もない人間に、心を許して自分の領域に入れろなんて、そんな独善的なことは言わない。ただ、僕に、嫌なら嫌と、言ってほしかったまでだ。  つらつらと現実にそしりを並べ、ごちゃごちゃと反芻していると、彼、由と目が合っていたことに気が付いてしまう。いつのまにかピアノの音は止んでおり、自然の音も聞こえない、完璧な静寂になってる。この静寂が、僕らの間にある、何とも言えない気まずさに破折がかかり、この世に最も不穏な空気にもっていく。この静寂を破るのはどちらか、と押し付けあいでもするように、一度会った目はいまだに離されることはなく、ただ延々と、う---、ん。気まずっ。って感じである。  ここは俺が折れようと、口を開き方その時。彼の口角がうっすらと上に上がったことに気が付く。あぁ。そういうことか…。遊ばれたなぁ。 そう察し、それならこちらも容赦はしない。それから、すぐに口を閉じ、それならば、最後の最後に裏切る、という最高傑作の闇にあふれた不穏な物語を思いつく。それを実行するためには、向こうの信頼と、俺をだませているという優越感が必須だ。 そう考え、ここは素直に俺からこの静寂を破ることにした。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加