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醍醐の盃
このような荒屋に泊まって話を聞いてくださる方に、なにからお話しすればよいでしょう。忘れ得ぬ春のことにいたしましょうか。
慶長三年、三月十五日。
京の醍醐寺は三宝院裏山に広がる麓で盛大な花見の宴が催されたのはあなた様もご承知の通りでございます。思えばあれが、豊臣家最期の花見でした。
申し訳ございません、涙が。ああ、あの日の素晴らしさといったら。参上したのは豊臣身内の方をのぞいては諸大名の女房衆、女中など女人ばかり、それでも千人はいましたでしょう。場内には茶の湯、歌会の席がそこかしこに設けられ賑やかな声が響いていました。山の中腹まで豊太閤直々に検分され、植えられた桜の木が薄桃色に咲いていたのを覚えています。
私は女中のひとりとして忙しく働いていました。女人には豊臣家から着物が下賜され一日二度の衣替えを命ぜられたのですよ。
──大変だったろう?正直に申せば、何度も着替えるのは大変でした。しかしそれ以上に女中風情に許されない絢爛豪華な小袖に身を包むのは天人にでもなった心地がしたものです。美しい着物を着るのは、女人にとってまこと嬉しきことなのですよ。
揉め事がありましたのは豊太閤より宴の盃を受ける役目でございました。一番最初は正室であらせられる北政所様です。問題は二番目、誰がお受けになられるか。花見の席に入る輿の順序でいえば二番目は西の丸殿ですがこれに異論を唱えたのは松の丸殿でした。「京極は浅井の旧主、その上西の丸殿より早く側室になった己が盃の三番手なのは道理に合わぬ」ことだと主張されたのです。
いっぽう、西の丸殿も「太閤の後継者たる拾君を産んだのは己」だと譲りはしませなんだ。それもそのはず豊太閤の盃は他の盃とは違います。手の平ほどもある朱い盃で酒を酌み交わすのは寵愛の証、権勢の証でございました。けれど傍目から見れば不安でもあったのです。
この頃すでに豊太閤は衰えておられ、失禁されるだけでなく時たま見知った近習の顔でさえお忘れになることは城の人間のみならず大阪の民、童まで知っていることでした。
無論、口に出せば殺されますので口には出しませんが拾君も幼いのに、後ろ盾になるはずの豊臣家中が言い争いになるのではこの先どうなるのだろうと、いかにも不吉な思いがしたものです。せっかくの花も霞む言い争いに豊太閤も眉をひそめておしまいになった時、加賀殿が前に進み出て、「歳の順でいけば二番手の盃を受けるのは己」だと仰せになりました。
確かに加賀殿の夫君は加賀大納言様、北政所様とも親しく拾君の乳母でもあります。当然花見にも客人として招かれていました。
「おお、その通り、その通りじゃ」
豊太閤は天晴れと笑みになられ加賀殿を招くと御自ら酒を注がれます。言い争いになっていた西の丸殿、松の丸殿も威勢をくじかれ大人しくなられました。いかに側室様方といえど権勢ではなく客人としての立場でものを言われればどうしようもありません。
私はあの加賀殿の柔らかな物言いに感服したのです。加賀大納言様のような人望ある方の奥方がいれば奥向きも安心であろうと……
豊太閤がお亡くなりになられたのは花見から五つ月を経た夏の終わりにございました。長きにわたる大戦の末、豊臣家は途絶え、今となっては全て夢幻、一夜の桃源郷です。
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